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お城マニアをうならせる地方の城5選 !「謎の城」も!?―武田氏滅亡を決定づけた城 「高天神城」

「歴女」と呼ばれる歴史好きな女性の登場もあり、「お城」が好きな人が増えているそうです。なんでも昭和天皇も「お城ファン」のお一人だったそうですよ。そこで今回は、プロに「お城マニアをうならせる城」を5つ紹介していただきました。

歴史研究家であり、お城に関する著作をたくさん持つ藤井尚夫さんにお話を伺いました。

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――お城ファンが増えているそうですね。

藤井先生 そうですね。女性の方も増えています。それも戦国期の天守がない「土の城」の女性ファンも増えているように思えますね。

――お城ファン、マニアもうなるようなお城を紹介していただきたいのですが。

藤井先生 「城」が戦いの道具として、最も輝いていた戦国期の城郭遺構の中から選びましょう。その中でも、築城目的が解明でき、遺構の保存状態が良く、自分の「足」「目」「頭」とで観察し、感動できる五城です。

近代的軍事思想を持った戦国の海軍基地! 「下田城」

↑藤井先生の手による下田城の復元図。海軍基地だったかつての姿がよく分かる。

種別:水軍城 = 水軍・海軍の根拠地となった城
場所:静岡県下田市

⇒藤井先生の解説
「下田城は小田原の北条氏が直轄した城で、北条水軍の前線拠点です。言い換えれば前線の「海軍基地」です。1590年(天正18年)に豊臣秀吉が行った小田原攻めの際に、小田原城の支城として約50日間の籠城(ろうじょう)戦を行いました。

この城の特徴は、主郭(しゅかく)や副郭(ふくかく)といった「曲輪(くるわ)」がないことです。最重要地点は軍船が停泊できる海岸ですから、城の構造は「軍港としての海岸をいかに守るか」を主題にして縄張(なわばり)がされています。

●……「縄張」というのは、お城に防衛のための機能、仕組みをどのように持たせるのか、の「レイアウト設計」のことです。

軍船を接岸する海岸(船を引き上げておく場所でもあります)、それを囲む尾根の上に、塁壁(堀・土塁)を巡らせていました。「軍港を守る城」という考え方は、近代の「軍港を守る要塞」と同様の思想を感じさせます。

下田城の築城工事のほとんどは尾根の上に塁壁を造ることで、他は城内の自然斜面を居住区とするための、削平工事(文字どおり削って平らにする工事)であったでしょう。城の占地は、軍船が接岸する海岸を守る尾根のある地形をうまく選んでいます。

江戸期には城地を幕府が直轄し、ここに奉行所が置かれ、西国から関東に入る船を臨検していました。その後、明治以降は「皇室用地」となり、幸いなことに遺構が壊されることはありませんでした」。

●藤井先生推薦のチェックポイント!
「城地は石質で、塁壁の斜面は築城当時の傾斜を維持している部分も多いです。専門的な話になりますが、石質の尾根に掘った空堀では、北条氏の城の堀に多く見られる「堀障子」が当時の姿のまま観察できます。

かつて北条の軍船が停泊した海岸の一部を現在、海上保安庁が港として使用している点も感慨深いものがありますね。

現在下田港に造られた「外ヶ岡交流館」(城跡の北東1km)には、私が監修した『下田城の復元模型』が展示されています。ぜひ足を運んでみてください」。

武田氏滅亡を決定づけた城 「高天神城」

↑高天神城横堀。写真撮影:藤井先生

種別:山城(やまじろ) = 山の地形を利用して造られた城
場所:静岡県掛川市

⇒藤井先生の解説
「高天神城では、2回の大きな籠城戦闘が行われました。1回目は、1574年(天正2年)に徳川軍が籠城し、武田軍が攻略した戦いです。2回目は、1581年(天正9年)に決着した戦いで、このときは武田軍が籠城し、徳川軍が攻略側でした。

攻守が逆転していたわけです。

1575年(天正3年)の有名な「長篠合戦」で大敗北した武田家でしたが、1581年(天正9年)までは、甲斐・信濃・駿河・上野(約半分)と、遠江の一部を領有する巨大戦国大名であり続けていました。

しかし、高天神城に籠城した城兵への後詰(救援)ができず、この城を徳川軍に攻略された後は、当主である「武田勝頼」は家中の人望をすっかりなくしてしまいます。そして、高天神城落城後から1年をたたずして武田家は、一度の主力決戦もできないまま、「織田・徳川連合軍」に滅ぼされてしまうのです。

巨大戦国大名武田家は、勝頼が動かないままこの城を失ったことで、軍事組織が崩壊していたのです。高天神城は、武田氏の滅亡を決定づけた城ということができるのではないでしょうか」。

●藤井先生のチェックポイント!
「現在城跡は、標高130mの山の頂部を中心に、山すそ近くまで含んだ広範囲にその遺構を残しています。その遺構から、城の重点防御方向は、城地から峰続きである西方であることが分かります。西方を仮想敵方向とした堀切・土塁・横堀・切岸や、井戸・虎口など、1581年(天正9年)時の遺構を観察できます」。

●ここにも注目!
東海地方にあるこの城跡の、城マニアの注目度はとても高く、最近は城域全体を復元した『城ラマ高天神城』が発表され、話題となっています。

⇒『お城ジオラマ復元堂』の公式サイト
http://joukaku-fukugen.com/

徳川系山城の典型! 「大給(おぎゅう)城」

種別:山城
場所:愛知県豊田市

⇒藤井先生の解説
「大給城は、松平一族の大給松平家の居城です。戦国大名の居城とは違い、徳川家康の家臣の城ですが、徳川領の東方の武田軍に対する、徳川軍の前線拠点となっていました。

東三河の山間地に造られている徳川方の城の多くは、武田軍に対する抑えとして、元亀末から天正の始め(1572年から1575年)ごろにかけて造られたり、修築されたものが多いと考えられています。

大給城はこれら徳川軍の前線城郭の中では大規模な例で、大給城を見ると、この時代の徳川系の山城築造テクニックを観察できるのです」。

●藤井先生のチェックポイント!
「大給城は、1590年(天正18年)に徳川家が三河から関東に移封された時点で廃城となります。現在の大給城の遺構は、その天正末期段階の状況が凍結されたものとされています。城跡は、その規模・保存状況・整備どれを取っても満点に近いと評価できます。

特に、岩石が露出する山地を削平した曲輪跡や石垣、水の手の構えなど、長期間使用されていた空間が残されていて、山城の生活風景を想像させる見応えのある遺構となっています」。

柴田勝家の本陣! 「玄蕃尾(げんばお、げんばがお、とも)城」

種別:陣城(じんじろ) = 合戦時に臨時に造られた城
場所:滋賀県長浜市

⇒藤井先生の解説
「1583年(天正11年)4月、織田信長死後の天下を、柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)が争った賤ヶ岳合戦において、柴田勝家が本陣としたのが玄蕃尾城(別名:内中尾山城)です。

城は、近江から敦賀に抜ける複数の北国街道の一つが峠を越える地点、そこにほど近い内中尾山(標高450m)にあります。

この場所は、北近江一帯を観察できる戦略上の要地ですので、賤ヶ岳合戦以前にも何らかの軍事拠点に使用された可能性があります。ですが、現在の遺構は、賤ヶ岳合戦時点に、急きょ造られたものと考えられています」。

●藤井先生のチェックポイント!
「現在の遺構は、内中尾山の頂部に当時の築城技術を駆使して造られており、土塁・空堀櫓台などの保存状況は申し分ありません。というのは、造られて数カ月で放棄されたため、天正11年段階の築造技術がそのまま凍結されて残っているのです。

その意味で、玄蕃尾の遺構は「標準化石」といえるのではないでしょうか。

戦国時代の盟主の本陣は、防御だけではなく、盟主の格式をデコレーションする目的もあり、小規模な塁壁を多重に設ける構造が多いのです。しかし、玄蕃尾城の塁壁の規模は陣城としては大きなもので、これが特徴になっています」。

誰がいつ造った!? 「保々西(ほぼにし)城」

種別:丘城 = 丘陵地帯に造られた城
場所:三重県四日市市

⇒藤井先生の解説
「保々西城は、伊勢の在地領主の朝倉氏の城と伝えられ、織田信長の家臣である滝川一益が攻略したとされています。しかし、現在の遺構を見てこの伝承に納得しない研究者は多いのです。

保々西城の現遺構を観察してみると、在地領主が長期間拠点とした城ではなく、一気に造り上げ、短期間の使用後に放棄されたもののように見えます。「一気に造り、短期間で放棄」と説明すると、陣城(戦争の際に臨時で造られる城なので、戦争が終わると破棄されるのが普通)のようですが、その規模と構造は陣城とは思えないものです。

誰がいつ造ったのか詳細は不明で、戦国末期の城と城下町が、一切の伝承を残さないまま、建物以外完存しているのは『戦国のミステリー』です」。

●藤井先生のチェックポイント
「保々西城の主郭の堀・土塁の規模は大きく、陣城のそれではありません。

・主郭に入る土橋には、鉄砲の使用も考慮された横矢掛かりが構えられ、長期の使用を予定して造られたものであることを示しています。これは戦国末期の遺構と考えられます。
・城に隣接して家臣屋敷の敷地が十数軒分残されています。その整然とした町割りは小規模ですが、都市計画がなされ、長期間居住する準備と考えられます。
・屋敷地は、敷地ごとに小規模な土塁(土塀の風化跡か)が囲み、入り口の幾つかには、枡形虎口の構造も見られます。

この戦国末期の城と城下町が、北伊勢の平野にある台地上にコンパクトに、風化も少なくほぼ完璧に保存されているのです。

以上の遺構状況から、保々西城は地元の朝倉氏のものでなく、外部勢力が進駐し造ったものと類推できます。それも、地元に伝承が残らないほど短期間のみの使用です。

これらの条件から考えてみると、

『織田信長の伊勢攻め(永禄10年~12年・1567年~1569年)の後、この地を治めることになった信長の家臣が築城した。しかし、短期間で他の地域に移封されたか、粛清されたため、築城者と築城者の家臣は突然この地から姿を消した……』

こんな推測も可能ではないでしょうか。
いずれにせよ一切の伝承を残さないまま、というのはミステリーです」。

いかがだったでしょうか。バカな筆者などが見ると「ふーん、城跡なの」と思ってしまう遺構でも、プロの目で見ると違うものなのですね。戦国時代の情景を現代に伝える大事な遺産だということが分かっていただけたのではないでしょうか。

皆さんも機会があったらこれらの「お城」を訪問してみてください。

●……記事内の図、写真は全て藤井尚夫先生にご提供いただきました。

⇒藤井尚夫先生の著作『ドキュメント信長の合戦』(学研)/『関ヶ原合戦』(朝日新聞社)/『復元ドキュメント戦国の城』(河出書房新社)/『ドキュメント幕末維新戦争』(河出書房新社)他多数。
http://urx.nu/ckgo

(高橋モータース@dcp)

※この記事は2014年10月09日に公開されたものです

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