風水で開運を! 色・方角・インテリアのポイントやNG風水を解説
風水の歴史
風水の発祥から現在に至る歴史を知れば、いかに人々に与える影響が偉大であったかがわかります。
中国や日本の名だたる偉人たち、そして国を動かした歴史とは?
風水の発祥
風水は今から約5000年前に中国で発祥したものです。神話上の名君である黄帝が天帝より、方位の吉凶を見定める占術の「奇門遁甲(きもんとんこう)」を記した天書を賜り、中国を統一したことが始まりとされています。
「風水」という名で呼ばれるようになったのは4世紀頃。それまで風水は、「地理学」や「相地」「ト宅」などと呼ばれていました。普の時代に郭璞(かくはく)が書いた「葬書」(墓地の選定書)の中で、「気は風に乗って則ち散じ、水に界れば則ち止まる。ゆえにこれを風水という」という記述がきっかけでした。
風水には中国の江西省で発達した「江西派(形勢派)」と福建省で発達した「福建派(理気派)」という2つの大きな流派があります。
江西派は、山の形など地形を重視するため、一般の生活には取り入れにくい部分があります。
一方、現在の風水のベースにもなっている「福建派」は、地相に加えて天文と地理の相応関係を重視しているのが特徴。五行や九星、八卦、十干、十二支などを用いて吉凶を判断しました。あらゆるものが五行に帰納されるため、時代や社会がどのように変化しても普遍的な原理に基づいて判断できるという利点があったのです。
風水は古代の人々が生きるために、自然を利用しながらより良い環境を探してきた学問なのです。
風水発展の歴史
こうして風水は、王都の設営やお墓の設計などを含める高度な環境学に発展していきました。「すべての道は長安に通ず」と謳われた大唐や、現代まで栄え続ける北京など、中国の歴史上栄えた多くの都はすべて風水によってつくられたのです。
風水が特に発展を極めた理由は、戦です。中国で大戦乱を巻き起こした春秋戦国時代に、軍師たちは風水を駆使して戦に臨みました。
風水は衣・食・住すべての環境が自分の運を決定づけます。軍隊にはそれを活用する環境があったわけですね。
『三国志』で名高い諸葛孔明をはじめ、中国史に名を刻む高名な軍師たちは、風水を駆使した兵法を実践してきた風水師でもあったのです。
日本における風水の歴史
日本に風水が本格的に伝わったのは、推古天皇の時代である602年頃です。きっかけは暦法を伝えたことでも知られる百済の僧侶・観勒(かんろく)が、風水の書物を日本に持ち込んだこと。
観勒を日本に招いた蘇我氏を通じて、風水は聖徳太子へと伝わることになります。聖徳太子は風水がとても気に入ったようで、風水のメッカである福建省に2人を派遣するほどでした。
そうして法隆寺にある八角形の夢殿から始まり、日本の神社仏閣や都づくりは風水が取り入れられるようになったのです。
藤原京から平安京に至るまでの日本の遷都の歴史も、同じく風水がベース。奇しくも風水を使わなかった長岡京は、災害が多すぎて10年で遷都されたという歴史もありますね。
現在の日本における風水
こうして日本に古くから根付いた風水は、戦国時代まで「陰陽道」という形で知識人に親しまれました。しかし、ある時期を境に日本から突然消されてしまったのです。
それは、徳川家康が風水を使って天下統一を果たしたときでした。なんと家康は、別の誰かが風水を使って天下統一を果たすことを恐れ、完全にその知識を封印してしまったのです!
江戸の街はすべて風水をベースにつくられていることが知られていますが、それ以降長い間、日本人は風水を取り入れることはありませんでした。ようやく日本に風水を復活させたのが、李家先生だったのです。
風水はトレンドであり、風水師はその時代のトレンドリーダーでした。それが約5000年も続いてきたカギでしょう。トレンドを無視すると学問は発展せずに消滅します。
李家先生は風水を女性向けに改良してきました。風水も、使ってほしい人たちのために、時代とともに変化していかなければならないのです。
開運法を知って日常をより良くしよう!
風水を実践するかしないかは、運を良くしたいと思うあなた次第です。
風水はみなさんの軍師であり、身近なアドバイザー。正しい知識を身に着けて、自分にとって必要だと感じたものを実践するのが得策です。
魔法の杖があると言われて、振らないのはもったいないですよね。次回からは、いよいよ具体的な実践方法をご紹介します!
(監修:李家幽竹、文:水野久美)
※写真はイメージです
※この記事は2019年09月21日に公開されたものです