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「クリスマスに彼氏がいる女」が勝ち組じゃない理由

マイナビウーマン編集部

クリスマスに彼氏がいない女の子を可哀想だと思う風潮が本当にうっとうしい。

10月なのに粘り強く飛んでいる蚊よりもうっとうしい。

平成も終わりますよってこのご時勢に、まだまだ顔色を変えて24日と25日の予定を埋めようとしている女子がどんなに多いことか。

世の中にはどうでもいい勝ち負けが溢れすぎなのだ。そして、その勝ち負けのほとんどが公式戦ではない。今や死語みたいになった「勝ち組」「負け組」にはじまって、みんな非公式戦の戦いを繰り広げて、負けたやつは可哀想と決めつける。

私は、勝手に負けを決め込まれて可哀想だと思われることが多い人生だった。

何度もいうがそれは公式戦じゃない。息子のサッカーの試合でさえ審判講習を受けた審判員がいるっていうのに、世の中の大人が繰り広げる勝ち負けには審判がいたためしがない。勝手に試合を申し込んで負けた、勝ったと騒いでいることほど無駄なことはない。

美人すぎる姉と神様がサボって作った私の話

私にはまったく似てない姉がいて、その姉は地元でも有名な美女だった。おしゃれな洋服屋さんのカリスマ店員で、姉を取材しにくる雑誌社はたくさんあったし、実際姉が店で着る服は売れた。私は学校でも「○○さんの妹」という存在で一目置かれていた。哀れみというエッセンスを加えたまなざしを受け止め続けた学生生活だった。

姉はガリガリなのに私はおデブだし、姉はとてもきれいな鼻梁でその肌は透き通るかのように白い。

なのに実の妹である私は、寄り目になって必死にがんばっても低すぎるその鼻を目視できない。最近になって、ほとんどの人は下を向けば自分の鼻が見えるという事実に驚愕した。

神様がサボったのだ。私の鼻筋を作ることをサボったのだ。そして、生粋の色黒肌の私が夏につけられるあだ名は、決まって「梅宮辰夫」である。

でもいいのだ。姉はいつも私を「かわいいかわいい」と言ってくれたし、やさしくて子煩悩な両親のもと心身ともにすくすくと成長した。(週末になれば屋上BBQをやりたがる家族なので、友だちに“アメリカ”と呼ばれていた)。

姉の美貌が私の劣等感の材料になったことは今まで一度もない。

人は、“圧倒的な何か”を目の前にするとだいたい口を半開きにして「すごいなぁ……」とひとり呟くことくらいしかできない。

可哀想って他人軸で決まるものなん?

忘れもしない記憶がある。それは私が小学1年生のときだった。夕飯のあとの団らんで、姉と母と私の3人でジェスチャーゲームをしていた。

私が出題する番になり、四つんばいになって「ぶーぶーぶぅ」と鳴いた。そう、豚である。

母と姉は、爆笑しながら「豚!」と答えた。楽しい夜の一幕のはずだった。

その瞬間、ガシャン!! とテーブルを叩く音がした。見ると、そこにいたのは阪神タイガースの中継を見ていたはずの父。

私の茶碗が真っ二つに割れて床に落ちているのを、びっくりして見つめた。

「このちゃん(筆者の呼び名)は、豚なんかとちゃう!!!!」

あ、こいつ今私を可哀想だと思ってるな。幼心にはっきりそう感じた。生まれてはじめての感覚だった。

この状況を説明するとおかしなことになると思ったのか母は、「そうやんな。このちゃん本当にごめんね。お父さんもごめんね」と言い、姉も半べそで「ごめんね」と呟いた。

いやいやいや、この状況私めっちゃ可哀想な感じになってるやん!

こんなことが私の人生でたくさんあったけど、少なくとも私は可哀想じゃない。

でも、超絶かわいいお姉ちゃんを持っている小太り鼻ぺちゃの私が「可哀想じゃないもん!!」なんて叫ぶことはしない。感受性の強い人が聞いたら泣いたりしそうなので言わないだけだ。

言わないだけで私、可哀想じゃないですから。

中学、高校を女子校で過ごした私のまわりはなぜか美女だらけだった。美女ってわりと生きづらいということもその6年間で学んだ。

嫉妬されたり勝手な勝負に挑まれて勝手に悔しがられたりするから。美女は美女と戯れることが多いのだけれど、気持ちがわかる同士でつるんだほうが楽だからだろう。

そして私は、姉によって生まれたときから“美女に挑まない女”としての素質があり、それを本能的に感じた美女がわらわらと集まってきた。右を向いても美女、左を向いても美女、家に帰っても美女。美女ホイホイだ。

昔から調子乗りでひょうきんものだった私はある日、学校の帰り道で「かばん持ちじゃんけんしよーぜえ!」と持ちかけた。

2000年代に差しかかろうという時代にかばん持ち。今振り返っても平和な学生生活だった。同じグループの美女たちはしょうがないから付き合ってやるか、とじゃんけんをした。

そして私は負けた。ダサい。言いだしっぺの私がけちょんけちょんに負けた。

みんなが腹を抱えて笑っていた。私はみんなのかばんを持って数メートル歩いて、あまりの重さに「降参!!」と叫んだ。誰も文句を言わず「はいはい」と言ってゲームは終わった。

次の日、私は校長室にいた。

深刻な顔をしている校長先生と心配そうにこちらを見つめる担任。そして、担任が話しはじめた。

「おまえ、いじめられてるんか? 昨日近所の人から、『ひとりかばんを持たされてる子がいる』ゆうて電話がかかってきたんやで。あれ、おまえやろ?」

勘弁してくれよ。こんなことばっかりだった。これが仮に負けたのがグループにいる美女の誰かだったらこうなったのか。

哀れみの目で見つめてくれるな。私が負けたのはじゃんけんだけであって、別にグループのみんなに何ひとつ劣っているわけではない。

私がいじめられるなんてありえない。そんなこと担任だったらわかるだろーが。わかりやすい外見という情報だけを採用して、私を可哀想な生徒にするな。

大事なことだから2回言う。

私は可哀想じゃないですから。テストに出すから覚えといてくれ。

クリスマスの「可哀想じゃないアピール」も必要ない

明日は1年でもっとも「勝った負けたの応酬」が繰り広げられる、クリスマスという日。

ひとりでケンタッキー食べようが、彼氏とフレンチディナーを食べようが、勝ち負けはどこにも存在しないのだ。

だから私は、もし親友がクリスマスをひとりで過ごすとしても彼女を可哀想だと思ったりしない。

無理やり「私ら可哀想じゃないもんね!」とアピールするかのように女友だちで集まって、飲み明かしたりする必要だってどこにもない。

みんな落ち着け。頼むから落ち着くんだ。

じゃあ本当に可哀想なやつって誰だろう。

いつも思い出す光景がある。ある大学受験の日の帰り道。

予備校が受験生に速報の答えをプリントして配布していた。もみくちゃになりながら、そのプリントをゲットした私は熱心に答え合わせをしながら歩いていた。

うしろにいた男子高生2人がそれに気づいた。「あの子答え持ってるやん、貸してもらおうや。俺、ここの受験に懸けてんねん」とこそこそ話している。その瞬間、もうひとりがこう応えた。

「いや、どうせならもっとかわいい子から借りようや」

プッチーンときた私は、くるっと振り返ってこう言った。

「はい、これあげる。あと私、全教科だいたい2問しか間違えてなかったわ。まあでも、この大学なんて滑り止めやけどな」

いろんな人が振り返った。

あのときのあの男子が本当の可哀想なやつだ。だって受験という公式戦でおそらく私に負けたんだから。

(オカン/マイナビウーマン編集部)

※画像はイメージです

この記事を書いた編集部のオカンがときどき登場するマイナビウーマン公式ツイッターはこちら(@mynavi_woman)

※この記事は2018年12月24日に公開されたものです

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