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現代男子と大ちがい! 戦国武将は女性に優しかった!? 織田信長も女性には丁寧だったと判明

城みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。「肉食系男子」のイメージの強い戦国武将ですが、彼らは女性に対しても、自由気ままにワイルドに振る舞えたか……というと、そうでもないのですねぇ。

戦国武将といえば、絶対的な権力者のように創作物の中では描かれていますが、実際のところ、家臣は気に入らないことがあれば、すぐに離反してしまいますし(上杉謙信のような「天才」にはついていけない家臣が多く、離反率は戦国でもトップレベルだったとも)、正室だけでなく、側室なども好みで選んだ……というより、政治的な理由で、来てもらっている存在であることのほうが多かったと思います。

自分の家臣や、他国の領主の娘たちと武将が結婚することで、絆が深まると考えられたのですね。必然的に、女性をテキトーに扱うことはNGでした。たとえば、究極の「オレ様男」のように描かれることの多い、織田信長もホントは女性には丁寧だったようですよ。
一般的に女性に対してはテキトーな扱いが多いとされる戦国武将たちの中でも、織田家は特にその傾向が強く、たとえば結婚しても、子どもを残せなかった女性は家系図に書き入れてすらもらえない傾向があるのですね。信長の正室(正妻)だった濃姫も「信長との間に子どもがいなかった」という説があるため、彼女がいつ亡くなったかも、系図からはたどれないのです。

ところが、織田家の男……すくなくとも信長は女性に対してシビアな扱いをしていたわけでもなさそう。実際のところ、信長には記録に残っているだけで27人もの子どもが(濃姫以外の側室との間に)いるんですね。織田信長といえば前田利家や森蘭丸といった恋人とされる男性の名前が記録に残り、男色のイメージが強いのですが、男性と同等か、あるいはそれ以上に女性たちとの関係も熱心に保とうとしていたことが、信長の子どもの数から推測できるわけです。仲の悪い男女の間に子どもがたくさんうまれることは珍しいと思われますから。

また、諸説あるものの、信長との間に子どもが出来なかったとされる正室の濃姫ですが、現在の滋賀県にある、織田家にとっては菩提寺的な存在の摠見寺の記録では、「濃姫(と思われる女性)は本能寺の変の後も織田家に残り、夫を供養をしつつ78歳まで長生きした」……とあるのです。

女性といかによい関係を保つかは、戦国武将にとって大きな課題の一つでした。平安時代から上流階級の間で信頼されてきた医学書『医心方(いしいんぽう)』の教えのひとつに、男性が興奮に任せて、いたしてしまうのはNGとあるわけです。この『医心方』を、わかりやすくリライトし、自分の意見を書き加えた書物『黄素妙論』を、曲直瀬道三(まなせどうさん)という戦国のカリスマ医師が書いています。それを彼に書かせたのは、主君を裏切って破滅させ、その妻も無理矢理に寝取った……と「やりたい放題」だった、松永久秀(まつながひさひで)という武将でした。ちょうど織田信長と同時代人ですね。

『黄素妙論』では、エッチする前に、ちゃんと女性と(「好きだよ」的な)会話をするように、と書いております。その後、「女性の顔が赤くなったら、彼女もエッチな気分になってるので今晩はOK!の合図(原文は「女のおもて赤くなるは心中に淫事の念をきざすしるし」)」とアドバイスが続くわけです。さらなる詳細は省きますが、「極悪人」と当時から思われていた松永久秀ですら、女性に嫌がられない接し方を学ぼうとしていた……逆にいうと、それを大事と考えていたことがわかるのです。
当時、よく使われたのが媚薬です。男性用はマムシとか、今と大差ない感じかも。でも何種類もあった女性用が、かなりナゾなんですねぇ。一例として、女性の気分を高めるおクスリとして用いられた「緑鴬膏(りょくおうこう)」について紹介しましょうか。山椒や、現在では肉料理のニオイ消しにつかわれる丁子(クローブ)を蜂蜜などで練り上げたもので、これを女性器に塗りつけたそうです。効果のほどは不透明でしたが。

さて、長々と見てきましたが、戦国武将として成功するための条件は、単に戦上手だけではダメなんですね。女性をテキトーに扱うことはタブー。女性へのサービス心の強さが、かなり必要とされていたのです。つまり外では闘って、内ではごますり。武将ってかなり辛い「職業」だったんですねぇ。

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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
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※写真と本文は関係ありません

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