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出会い探しは現代も同じ! 1日に何回も銭湯に行って、縁日にでかける女子の行動

堀江 宏樹

銭湯江戸時代の女性たちが、家事の合間に一日に何度も熱心に銭湯にかよったのは、当時は銭湯内でだけ、セルフエステともいえる美容ケアができたからかもしれません。

うぐいすのふん(※本物)や、米ぬかなど配合した袋をお湯に浸し、それで身体中をこすって綺麗にすることが流行りました。うぐいすのふんには、特別な酵素が含まれており、洗うだけで肌がすべすべになったのですね。
ちなみに江戸時代、美肌とされた肌質は、現代の感覚とは多少異なっておりました。ツヤツヤと潤っている状態の肌より、多少パサパサしていても、サッパリ、すべすべした肌が好まれたようです。塗ったところで化粧水だけでしたし、保湿という観点は重視されていなかったようです。

そもそも江戸時代には現代女性がつかっているようなタイプの化粧下地は、存在していません。すべては白粉(おしろい)のみ。これを芸者や遊女などプロ(玄人)の女性は濃くぬりたくり、素人は(白粉が高価であることもあって)、比較的薄めに、顔や首などに塗った……という感じなんです。

吹き出物などがある肌に白粉を塗れば、凹凸は逆に目立ちやすく、カバーして見えなくするなんて機能は期待できませんでした。要するに美容=洗いおとすこと、という感覚だけが当時は強く、一昔前の日本でも流行っていたダブル洗顔ならぬ「洗浄第一主義」が、江戸時代の女性には(ついでに男性にも)あったのです。

このように銭湯で肌を浄め、湯上がりに薄化粧をした若い女性たちは、縁日に出かけました。
現代で縁日というと、夏祭りや秋祭りといった年に数度のイベントのイメージが強いのですが、もともと縁日は字面の通り、「寺社仏閣にお祭りされている、ご本尊とのご縁が期待できて、願いが叶いやすい日」ということ。たとえば浅草の浅草寺の7月10日(現在では8日~9日)の縁日は、18世紀頃から別名「四万六千日」と呼ばれ、46,000日分お参りしたのと同じ効果があるというように、各寺社がプロモーションを展開していたのですね(笑)。

江戸ではこのように一日あたり最低でも数カ所以上の寺社で縁日が開催され、身分の高い方が亡くなったりしない限り、一年中、縁日はありました。この習慣は明治以降も引き継がれ、第二次世界大戦以前の東京では年間600件以上もの縁日が開催されていたそうな。縁日=娯楽産業の走りであり、ネットやテレビのない時代、娯楽をもとめる人々が集える場所として機能していたのでしょう。男女もそこでさりげな~く出会えていたのです。

でも相手へのアピール方法が面白いんですね。人混みにまぎれて「ある行為」をして、意中の相手に好意を伝えたのです。その「ある行為」とは……なんと相手のお尻をつねる、ということ。なんともダイレクトですよね。
出会った後は会話をしながら、出店で楽しんだことでしょう。出店の定番・金魚すくいは江戸時代から存在していました。江戸時代前期は、高級品だった金魚ですが、18世紀末~19世紀はじめにかけて、大量養殖が成功、庶民でも金魚を飼うことが流行しはじめました。

しかし、現在と事情は同じで、金魚すくいの金魚は、高級金魚として販売するには適さないと判断された、いわば間引かれた個体たちです。家に連れ帰った翌日には死んでしまうことも多かったはず。それこそ、夜に見つけた恋がなかなか長続きしないように……。それでも江戸時代の女性たちは銭湯に通い、肌を磨き、次なる縁日に出かけていったのでした。


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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
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※写真と本文は関係ありません

※この記事は2015年04月05日に公開されたものです

堀江 宏樹

プロフィール歴史エッセイスト。古今東西の恋愛史や、貴族文化などに関心が高い。

公式ブログ「橙通信」
http://hirokky.exblog.jp/


角川文庫版『乙女の日本史 文学編』が7月25日、幻冬舎新書として『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』が9月30日にそれぞれ発売。

 

その他近刊に『乙女の松下村塾読本 吉田松陰の妹・文と塾生たちの物語』(主婦と生活社)、『女子のためのお江戸案内
恋とおしゃれと生き方と』(廣済堂出版)など。文庫版『乙女の日本史』ともども増刷中。

 

監修として参加の、音楽家バトルファンタジー漫画『第九のマギア』(メディアファクトリー)の第一巻も好評発売中!


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