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「好きかもしれない」この気持ちの正体

ラブホの上野さん

好きかもしれない。誰かにこんな気持ちを抱いたことはないでしょうか? コラムニストのラブホの上野さんは「その気持ちが本物か確かめてはいけない」と言います。「好きかもしれない」という気持ちの正体とは? なぜ確かめてはいけないのでしょうか?

あの人のことが好きかもしれない。

中学生や高校生の頃であれば「好きかもしれない」なんて悩むこともなく、真っすぐ「好き!」と思えていたかもしれませんが、大人になって経験を積み、さまざまなしがらみが増えるにつれて、本当に好きだと感じているのか悩んでしまうもので御座います。

いつまでも子どもの頃のように無鉄砲に人を好きになる方はそうそうおりません。

それは一体なぜなのでしょうか。

今回は「好きかもしれない」という曖昧な気持ちになる理由について、またこの気持ちの対処法について、私なりに考えてみたいと思います。

新規参入に厳しいマージャン

皆さまはマージャンをしたことがあるでしょうか?

私は高校生の頃から本格的にマージャンを始めたのですが、ルールを知らない方にとってマージャンというゲームはあまりにも分かりにくいものでしょう。

マージャンはとにかくルールが複雑なのです。特に厄介なのが「役」と「点」計算で、初心者がマージャンを楽しめない最大の障害になっているのは間違いありません。

さらにマージャンは4人そろわないと遊べないため、マージャンを遊びたいと思っても自分以外に3人のメンバーを集めないとゲームをすることすらできないのです。

こんな面倒くさいゲームを新しく始めようと思う人などそうそうおりません。そのためマージャンの競技人口は2009年の1350万人をピークにして、2018年には580万人まで激減しました。

他に娯楽が無い時代であればともかく、これだけ娯楽が普及した時代においてマージャンは新規にハードルが高過ぎるのです。

新規参入が無ければその業界が衰退するのは当然の話であり、この問題を何とかしない限りマージャンの未来は暗いものになるでしょう。

恋も新規参入に厳しい

実は恋も新規参入に厳しいので御座います。

人を好きになると、もちろん楽しいことや幸せなこともたくさんありますが、それと同じかそれ以上に多くの悲しいことやつらいことも生まれてしまうものです。

人生経験を積み、そのことを理解してくると子どもの頃のようにポンポンと人を好きになることはできなくなるでしょう。本当に相手のことが大好きだと自覚した恋であれば、そのリスクを負ってでも相手にアプローチをすることができますが、不確かな恋心で相手にアプローチをしてしまったら、得るものよりも多くのものを失ってしまうかもしれないのです。

この状況はまさに前段のマージャンと全く同じだと私は思います。

子どもの頃は新規の恋に対して、我々は非常に寛容かつ優しく接していました。わずかな恋のかけらもきちんと恋と認めて、その恋心が本物の恋に育つように一生懸命育てていたのです。

ですが大人になってから、私たちは新規の恋にものすごく厳しく、参入のハードルを高くするようになってしまいました。

「それは本当の恋なの?」。

「その恋をして傷つかない?」。

「相手に憧れているだけじゃないの?」。

こんなことを考えていれば、せっかくわずかな恋心を抱いたにもかかわらず、その気持ちを失ってしまうのは間違いありません。

「好きかもしれない」気持ちの取り扱い方

最初から「本気」を望んではダメ

各業界の最前線で戦っているアスリートたちは、おそらく自身の競技に対して本気で取り組み、本気でその競技のことを愛していることでしょう。

野球の大谷翔平選手にせよ、テニスの錦織圭選手にせよ、将棋の藤井聡太棋聖にせよ、皆さまそれぞれ自身の競技に本気で向き合い、本気で愛していることと思います。

しかし、彼らは最初の最初からその競技に本気で向き合っていたのでしょうか?

そんなことはどう考えてもあり得ません。大谷選手がバットを初めて握った時は、そのバットでスイカ割りでもしていたかもしれませんし、錦織選手がラケットを最初に握った時はガットを顔に押し付けて変な顔ごっこをしたかもしれません。それに藤井棋士だって最初は多分将棋崩しか何かで遊んでいたはずです。

上記は全て私の妄想では御座いますが、どれほど本気の人も最初の最初はいいかげんな気持ちだったはずです。初めてバットを握った時の大谷翔平君は「僕は絶対にメジャーで二刀流として活躍してみせる!」なんておそらく考えておりません。

もしも野球という世界に新規参入したばかりの大谷翔平君にその業界が厳しく接していたら、今頃どこかの企業の営業マンとして働く一人にでもなっていたことでしょう。新規参入者に優しく接し、歓迎していたからこそ大谷翔平君は後にプロとして世界で活躍する大谷翔平選手へと成長をしたのです。

最初から本気であることを望んではいけません。

最初はみんな曖昧でいいかげんで適当な好奇心から始まっているのです。

恋もまた同じでしょう。

最初から誰かのことを本気で好きになることなんてあり得ません。むしろそんなことがあるとすればそれは恋ではない別の危険な何かと考えた方が良いでしょう。

最初は些細なことなので御座います。

「へぇ……やるじゃん」とか。

「ふーん……いいじゃん」とか。

そんな「好きかもしれない」とすら思えないような感情から全ての恋は始まっています。

重要なのはその後でしょう。そんなどう考えても曖昧でいいかげんで適当な新規の恋に対して、皆さまの心が新規歓迎の態度を取ったのであれば、その新規の恋は本気の恋になるのです。

しかし、新規を拒絶する面倒くさい古参のような態度でいれば、その新規の恋は相手に対するわずかな好奇心を簡単に失ってしまうことでしょう。

「好きかもしれない」気持ちには優しく接して

その「好きかもしれない」が本物の恋として育つかどうかは分かりません。もしかしたら将来メジャーで活躍するような原石かもしれませんし、どれほど努力しても高校のレギュラーにすらなれないクズ石かもしれません。

ですが、いずれにしてもその恋を歓迎して優しくしなければ、新規の恋は簡単にやる気をなくしてしまうのです。大活躍するメジャー選手だって最初の頃は親からちょっと怒られただけでやる気を失ってしまういいかげんなやる気しか持ち合わせてはいなかったはずなのです。

ですので、メジャーで活躍するような恋を生み出すためには、その恋が何であれ、まずは優しく接してあげる必要があるでしょう。

「偽物なんじゃないの?」なんていう、うがった視線を向けていれば、その恋は簡単に瓦解します。それもそのはず、全ての恋は最初はいいかげんな偽物なのです。

本当の恋から始まる恋愛を望むのは、生まれた瞬間に165kmを投げる赤ちゃんを望むようなものでしょう。言うまでもなくそんな人間はこの世に一人もおりません。

「好きかもしれない」が本物か確かめてはダメ

今の自分の気持ちが本物の恋かどうか確かめる。

確かに聞こえは良いですが、これはまさに新規に厳しく当たる古参のやっていることと変わりません。

例えば皆さまが何か新しい趣味を始めようと思ったとしましょう。当然ですがその時点では「何か面白そう!」くらいの軽い気持ちしか持ち合わせておりません。

それなのにいざ始めようと思ったら、その趣味をしている人から「お前本気でこれをやろうと思ってるの?」「生半可な気持ちでやってほしくないんだけど」と言われたらどうでしょうか?

間違いなく心が折れることでしょう。最初のうちはそこまで強い意志など持ち合わせていないのです。そんなことを言われたらもろ過ぎる意志など簡単に折れてしまうことでしょう。

「自分の気持ちは本物の恋なのか?」と確認する行為はまさにこれと全く同じで御座います。

付き合ってもいない、デートもしていない、ろくにしゃべったこともない。

そんな時点で持ち合わせている恋心なんて、どう考えたって簡単に折れるもろい気持ちでしかありません。ですので「この気持ちは本物なのか?」を確かめる、なんていう高い試練を課してしまったら簡単に崩壊することでしょう。

古参は新規参入者がそうして折れる姿を見て「やっぱり本気じゃなかった」と笑いますが、それがどれほど醜いかはいうまでもありません。

「好きかもしれない」気持ちは大切にしよう

皆さまが「恋かもしれない気持ち」を失いたくないのであれば、その気持ちが逆に引くくらいの勢いで歓迎してあげる必要があるでしょう。

「本物の恋かどうか不安!? 大丈夫大丈夫!! 僕たちもみんな最初はそうだったから!!」。

「やり方がわからない!? OKOK!! 全部教えてあげるね!!」。

「道具を持っていない!? いいよいいよ! 貸してあげる!!」。

もしもその恋が本物ではないのであれば、どれほど頑張って新規を沼にはめようと思っても、勝手に立ち去っていくのです。

ですので私たちは本物かどうかを見極めずに、新規の恋を沼にはめるつもりで歓迎し続ければ良いでしょう。

本物の恋かどうか見極めるという行為そのものが、そもそも恋の芽を摘むための行動にしかならないのですから、どんな業界であっても「新規はまず沼にはめろ」という原則は変わらないと考えましょう。

(ラブホの上野さん)

※画像はイメージです

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