誉め言葉じゃない? 「芯がある人」の特徴と本当の意味とは
人から「芯がある人だね」と言われた時、うれしい反面、どういう意味で言われたか考えてみたことはありますか? コラムニストのマドカ・ジャスミンさんが語る「芯がある」の定義と、芯がある人の本当の良さには、思いもしなかった驚きがありました。
多様性が叫ばれているこの時代だからこそ、必要になってくるのは「芯がある」ことだ。
何にでも「Yes」と答え、誰にでも笑顔を振りまける人もいるけれど、何かおかしいと感じた点を指摘し、場合によっては議論へと発展させる人間も一定数は必要といえるだろう。
「芯がある人」と言われた場合、それは誉め言葉なのか
しかし、この「芯がある」を誰かが言われている場面に出くわすと、すべてが良い意味での投げかけではないと思わざるを得ない。
本来は誉め言葉であるはずの表現にもかかわらず、なぜか「面倒臭い」「厄介者」「我儘」「我が強い」「頑固」といったニュアンスを感じるのだ。決して、短所を指す言葉ではないはずなのに。
これは“沈黙”がコミュニケーションとして成り立つ日本だからこそともいえるかもしれない。
欧米諸国のコミュニケーションは、とにかく言語化して伝えることが特徴だ。一般的な会話から、一転してディスカッションへと発展することだって珍しくない。
とはいっても、これを読んでいる人たちの過半数は日本在住だろう。無論、筆者もそうだ。時に生きにくいと感じる場面もあれど、この「芯がある」と評される特性を自己否定するのはそれこそ前時代的なのだ。
芯がある人の5つの特徴
では、芯がある人は具体的にどういった特徴を持っているのか。
自分と周りにいる芯がある人たちを見て、その中でも顕著だったのがこの5つの特徴だ。もしかしたら、自覚が無くこれらの特徴に当てはまる、芯がある側だったと気づく人も少なくないのではないか。
(1)忖度しない
たとえ年齢が離れていようが、社会的立場が上だろうが、自分がマイノリティ寄りだろうが、一貫して意志を貫く姿勢を崩さない。
相手がどれだけ偉いと言われていようが、その相手の主義主張にそぐわなければ、きちんと反論を展開し、間違いを指摘する。権威に媚を売るようなまねは一切しないといえよう。
(2)言動に軸がある
人間関係や仕事の環境が変わるたび、ころころと言動も変わる人を見ていてどんな気持ちになるか。個人的には、「軸が無くてブレブレだ」となんとも虚しい気持ちを抱いてしまう。
芯がある人は文字通りに芯=軸があり、一見してブレていると思うような言動をしていても、本質的な軸はブレていないのだ。
(3)あくまでも大前提が主観
芯のある人は、自分の主義主張があくまでも“主観”内のことであるとわきまえている。
どんな主義主張や意見を持っていたとしても、それはすべて主観なので、それらを強要して他人を変えようとしたり、悪い表現をするならば操ったりしようとするのは、芯がある人ではなくただの独裁者に他ならない。
(4)自分の中の正義がある
ここでいう“正義”は、悪に対するものではなく、自分が絶対に守るべき最低限のモラルやポリシーを指す。
「正義の反対は、また別の正義」という言葉もあるように、必ずしも正義を抱くために悪を存在させる必要は無い。
「人生の中、これだけはしてはいけない」というデッドラインこそが“正義”で、他人に振りかざした瞬間に、それは正義ではなく、悪になるのかもしれない。
(5)曖昧な「YES」を言わない
「それはおかしい」「間違っている」「これはできない」。これらのような「NO」を伝えるのは、簡単なようで行えない人の方が圧倒的に多いだろう。
芯がある人は、絶対にYESマンにはならない。むしろ、「NO」と伝えるよりも、「YES」と伝えることに慎重となる。
確固たる「NO」で失うものは意外と少ないけれど、曖昧な「YES」で失うものは想像よりもはるかに多い。
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「芯がある」は誉め言葉だけではない場合もある理由
仮に私自身が他人を「芯がある」と評すれば、それは紛れも無く100%の誉め言葉だ。
しかし、先述した通り、一種の悪態として用いる人も多いのが現状でもある。そういった人たちは芯がある人たちのどういった点を見て、そう悪評を抱くのか。以下にまとめてみた。
(1)空気を読む気が無い
芯がある人たちは端から見れば、空気を読んでいない。……いや、読む気が無いと映ることが多い。
決定事項に対して待ったを掛けたり、細々としたチェックを入れてきたり、そこまでしなくてもいいぐらいの議論を求めたりと、彼らにとっては単なる“頑固でわがままな厄介者”に過ぎないのだ。
(2)「とりあえず」での選択が不可能
私もそうだが、何にしても「とりあえず」での選択ができない。仕事の選定やはたまた買い物など、選択を求められるありとあらゆる場面で熟考する。
自分だけで完結する際は誰にもそれを咎められないが、他人が一人でもかかわる機会においては「我が強い」と目くじらを立てられることも……。
(3)主張が一貫しすぎていて柔軟性が無い
国の性質もあって、日本人は良くも悪くも主義主張が無い人が多い。「みんなが良ければいい」といった群集心理がポジティブにはたらく場合もあるが、その逆もまた然り。
そういった状況で少しでもマジョリティとは違う主義主張を言い張れば、途端に煙たがれるなんてこともよくある話。そして、そう言い張る人に対し、世間はこう嘲笑う。「あいつは柔軟性が無い」と。
(4)そもそもこういった指摘を受け付けない
芯がある人たちはこういった指摘をされたなら、一言だけ返すだろう。
「だから、どうしたの?」と。
「芯がある」を良い意味のものにするには
「芯がある」に良いも悪いも無い。というよりも、あらゆる物事に善悪なんてものは存在しないと思っている。
私たちが良し悪しと判断するのは、ただの主観でしかなく、「Aは悪」「Bが善」と断定することこそが愚の骨頂。
なので、良い意味で芯がある人になるなんて発想自体がおかしいと思うが、ここではあくまでもマジョリティから誉め言葉として「芯がある」と評されるためのポイントを3つ解説する。
(1)優柔不断をやめる
第一歩としては、取捨選択の場面において、優柔不断にならないよう試みること。
これを行うには、自分にとって何が必要か。何が不要なのかを明確にするという過程が必須だ。
人間は自分で自分を理解しているようでしていない。優柔不断をやめる=生きる上での優先順位を決める。とすれば、人生をより良くするためにもやって損はない。
(2)自分に嘘をつかない
仕事や人間関係、気がつけばそれらが不平不満の温床となっている人たちに問いたい。そこまで自分に嘘をついて生きたいのか、と。
だからといって、今すぐに仕事を辞め、友達や恋人と別れ(離れ)、何もかもを削除しろだなんて極論は言わないし、言う権利すらない。
けれど、自分に嘘をついて、そしてそれを重ねて生きることは芯を失くすどころか、心まで失くす結果となりやすい。
自分の心の声を聞いていけば、自ずと芯も太く強固なものとなっていくだろう。
(3)他人の価値観を受容する(理解できなくてもいい)
芯を欲すというのは、別の芯を持つ人を受け容れると同義ともいえる。他人を受け容れない人が、自分を受け容れてほしいと声をあげるのは甚だおかしい。
勘違いをしてほしくないのが、受容と理解は大きくことなるということ。
「あなたは私には理解できないけど、存在や意見は認める」「どうしたってわかりたくもない価値観だけど、それはあなたの自由だよね」。
自分の芯は他人から侵されないように、他人の芯もまた侵せない。芯とは、人間の不可侵領域と捉えておくのがベストだ。
私たちが強くなり続けるために
少しでも自我を表すだけで誰かが叩いてこようとするこのご時世。それでも貫きたい、ブレない芯があるならば、何があっても失ってはいけない。
なぜなら、その芯はお金や名誉に変えられないほどの価値を有しているからだ。
失敗しようが、悲劇に見舞われようが、傷つけられようが、芯があればいついかなる時でも立ち上がれる。心無い者に揶揄されようと、誰にも奪えない宝物を持っている。
それだけで、私たちはとんでもなく強くなり続けられるのだから。
(マドカ・ジャスミン)
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