『パイロットフィッシュ』から見る「死」が結びつける「性」への執着
恋愛という感情の先には、相手のことを“もっと知りたい”と思う気持ちがあるはず。この連載では、小説に描かれる「好きだから触れたい」という心理について、官能小説研究家のいしいのりえさんに解説してもらいます。ちょっぴり大人な恋愛の世界を堪能してください。
私たちは、人生で大勢の人々と出逢います。
毎日のように連絡を取り、時間を共有し合う友人が、互いの環境の変化や価値観の不一致などで会わなくなることも多々ありますよね。
恋人同士の関係も同じように、些細なきっかけで関係が途切れてしまったり、拗れた結果、他の誰かと出会ったりすることも。
今回ご紹介する『パイロットフィッシュ』の冒頭はとても印象的な一行で始まります。
「人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである」
今回の教科書 大崎善生『パイロットフィッシュ』
本作は、40代の主人公・山崎のもとに、19年ぶりに元恋人の由希子から電話がかかってきた場面から始まります。
40代になり、ベテラン編集者になった山崎と、上京したばかりの19年前の山崎。
物語は二つの時代を交差しながら、由希子との出会いと別れ、別れるきっかけになった女性、そして今、山崎が出会った女性と、今の彼を作った人々との基軸が淡々と描かれています。
「死」が引き寄せた“触れたい”という感情
山崎が誰かに「触れたい」と強く感じたのは、大学へも行かずにふらふらとアルバイトを探していた時のことでした。
北海道から上京してきて、東京で出来た唯一無二の友人は突然自分の前からいなくなってしまった。一日中、誰とも話さない日々が続いたある日、実家の母から愛犬の死を知らせるハガキが届きます。
救いようのない孤独感に苛まれた山崎は、衝動的に川に入水するも、ふと3カ月前に電話番号を教えてもらった女性のことを思い出します。
上京して間もない時、道に迷っていた山崎を助け、電話番号を教えてくれた女性・由希子でした。
その後、由希子と交際を始めた山崎ですが、2人が働くアルバイト先の店長の死をきっかけに別れることになってしまいます。
その理由は、由希子の親友である伊都子と山崎が関係を持ってしまったからでした。
山崎が由希子に、そして伊都子が山崎に「触れたい」と感じた、共通の理由は「死」です。
大学に馴染めず、話す相手が1人もいない時、川底で唯一思い出したのが由希子という存在でした。
死から逃れたくて、唯一助けを求められる人を見つけた時、山崎は強く由希子を求めます。
対して伊都子は、店長が目の前からいなくなったことに耐えられなくなり、山崎のアパートに現れました。
この時の2人は、突然の「死」に直面し、強く「生」を求めたのではないでしょうか。
山崎自身の「死」への恐怖、そして由希子と2人で目の当たりにした店長の「死」。
彼らの出会いと別れには「死」が共通しています。
「死」が導く、生きるための指針
その後、山崎と由希子は別々の人生を歩み、由希子は家庭を持ち二児を授かり、山崎は二匹の犬と若い恋人と暮らしています。
19年離れていても、彼らの人生の基軸には恋人同士だった時があり、今があります。
結婚したけれど決して手放しで幸せとは言えない由希子には、山崎が編集長として働く出版社の同僚が関係していたりと、2人の人生は絡まり続けていました。
表題になっている『パイロットフィッシュ』という言葉は、魚を飼う環境を作るため、最初に飼う魚のことを言います。
本作では、山崎と由希子が「生きるため」に指針を与えてくれた2人の人物が登場します。
彼らに生かされ、そして死と対峙して強く相手を求めた19年間の物語を、ぜひ自身と重ねあわせてみてください。
(文・イラスト:いしいのりえ)
※この記事は2022年03月26日に公開されたものです