お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。

【File39】切なさに酔って好きな人と付き合えなかった話

#イタい恋ログ

ひろたかおり(恋愛コラムニスト)

今振り返れば「イタいな、自分!」と思うけれど、あの時は全力だった恋愛。そんな“イタい恋の思い出”は誰にでもあるものですよね。今では恋の達人である恋愛コラムニストに過去のイタい恋を振り返ってもらい、そこから得た教訓を紹介してもらう連載です。今回はひろたかおりさんのイタい恋。

高校生だった頃は、オトナになった将来のことなどまだ何も頭に浮かばなくて、好き勝手な恋愛をしていたなあと思う。

片思いはいつだって一方通行から始まるけれど、相手の気持ちを考える余裕や客観性などはなくて、ひたすら自分が抱える「好き」を持て余す日々だった。

そんな自分が相手にどんな印象を与えるかなんて、想像しない。できない。

「好かれるか」より「好きでいたい」に心を砕く毎日は、楽しくて刺激的で、また、切なかった。高校生活最後に好きになった男性との関係について、振り返ってみる。

気軽に好きな人の時間を奪っていた自分

彼は理系のクラスで、文系クラスにいた私は彼とどうやって知り合ったのか、もう覚えていない。

何があって好意を持ったのかも忘れてしまったが、思い出すのは放課後の美術室、油絵を描く彼の姿を見るために足しげく通う自分だ。丸太を切って置いただけの椅子に座り、キャンバスに向かう彼の隣に座るのが幸せだった。

どんな会話をしていたのかももう思い出せないが、ちらりと脳裏に浮かぶのは困ったような表情の彼で、おそらく私の存在はあまり歓迎していなかったと思う。集中して絵を描きたいのに、隣で話しかける人がいればそうもいかないだろう。当時の私は、彼のそんな状態を考えることができなかった。

何がしたいのでもない、ただ彼のそばにいたくて、話がしたいだけで、彼の時間を奪っていた。「帰ってほしい」と決して言わない彼に甘えていた。

「好意のカケラ」を知った瞬間

放課後の美術室で彼といろいろな話をしたことは、ずっと残している当時のノートを広げれば分かる。

油絵以外にも山が好きなこと、登山してみたいこと、それぞれ希望する大学のことや、いつも遊ぶ友人のこと。「自分たちの関係について」はひとことも話題に出ないしお互いの気持ちに触れる瞬間もなかったが、そんなことはどうでも良かった。

彼がどんな人間かを知りたい。知って、もっと好きになりたい。

ノートを見れば、彼にまつわる情報にどれだけ貪欲だったかが分かる。好きでいたい。これだけだった。

ある冬の日。はっきり覚えているのはカーディガンを着ていなかった自分の姿で、その時も美術室で彼の横にいたのだが、「はい」と言われて差し出されたのは、彼が着ていた学ランの上着だった。

何と答えて受け取ったのかは忘れてしまったが、袖を通したときに感じた温かさと、彼のにおいと、その大きさを覚えている。胸がぐぅっとふくらむような熱を、まだ思い出せる。

彼が初めて見せた好意のカケラ。私は勝手にそう思ってしまった。そして、私の「好き」が歪んだのもこの瞬間だったのだろう。

切なさに酔う私の“見苦しさ”

実際に何があったのかは当時のノートに書いていなかったが、それから私と彼の間に距離ができ、しばらく口をきかない期間があった。彼に会えないことや話しかけてもらえない自分への苦しさを綴る文章には今の私でも共感はできるが、目をそらしたいのは「切なさに酔う自分」だ。

今日も彼に会えますように。
ああ、またバイバイが言えなかった。無視された。
どうして私を見てくれないの。

そこにいる「悲劇のヒロインを気取る私」は、ひたすら「好かれたい」を認めようとしない幼稚さがあった

「自分から声をかけろよ、アホか」

哀れさばかり訴える文章からは醜悪な自己愛が見えて、目をそらしながら出るのはこんな正論だ。

そして思い出す。廊下ではち合わせしたときの彼の気まずい表情と泳ぐ目線、硬直して言葉を失う自分。その場をすぐに離れるのは常に私の方で、一緒にいる友人たちから不審がられたり冷やかされたりするのも、お互いに目にしていたはずだ。

そして、そんな行動がどんどん相手を遠ざけるばかりになる。ああ、苦しい。学ランを貸してもらえた、たったそれだけの事実で“好かれたくなり”、見苦しく仲を歪めてしまう自分が、痛々しかった。

イタい恋から得た教訓「相手の気持ちを置き去りにしない」

こんな葛藤がどうなったか、ノートには「そのままでいればいいと言われた」と書いてある。放課後、靴箱で図書室帰りの私は彼とばったり会い、その時に会話したらしかった。

握手をした、と。大きな手だったと。読み返すと今もヒィーッと紅潮するこんなシチュエーション、いったいふたりの間に何があったのか。

彼は、静かに私を受け入れてくれていた。駅まで一緒に歩くと言う私を断らず、私のマシンガントークを「聞け」と低い声で遮るが、その後は「あんたの方がいい」と褒めてくれて、珍しく雪が降った日は私に「教えたくて」と電話をくれて……そんな記憶がノートにはたくさん記してある。

好きでいてくれたのだ。彼なりに。書いたくせに、分かるはずなのに、私は彼の姿から目をそらし、「彼が好きな自分」しか見ていなかった

最後まで、ノートには「好きに翻弄される自分」しか書いていない。告白する自分はいない。関係を進める勇気は微塵も持っていない。

そして、彼とは付き合うことなく終わった。相手の気持ちを置き去りにするのは、残酷なことだなと思う。言動にはメッセージが含まれる。そこには「好き」がある。決定打を避けるのがお互いさまだとしても、言葉より雄弁に語るアプローチと、そこに込められた気持ちは、「受け止めたよ」まで返すことができればいい。

置き去りにされたら寂しさを覚えるのもまた、お互いさまなのだ。

いくつになっても、好きな人に好かれるのは奇跡だと思う。ずるいオトナになれば、なあなあで始まる交際もあるのだが、本気で好きになった人ほど「相手からも思われること」がいかに難しいかがわかる。

だから奇跡なのだ。好かれて当たり前ではない、という事実は忘れずにいたい。相手の気持ちを置き去りにしないのは、「好かれる自分」をきちんと受け止めることと同じ。手を取り合える幸せは、相手と自分を慈しむ貴重な機会なのだと自覚していたい。

(文・ひろたかおり、イラスト・菜々子)

※この記事は2022年02月20日に公開されたものです

ひろたかおり(恋愛コラムニスト)

1977年生まれのライター。主に恋愛系(復縁や不倫、男性心理など)や夫婦問題(コミュニケーションや仮面夫婦など)について書いています。37歳で出産し、一児の母です。人生のモットーは「自分の幸せは自分で決める」。

この著者の記事一覧 

BACKNUMBER 「#イタい恋ログ」をもっと見る

MORE

SHARE