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諦める勇気を持つ方法とは? 諦めた方がいい時の判断基準3つ

小日向るり子

中村幸也さんのヒット著書『あきらめる勇気』のように、人生は諦めることで好転するケースも存在します。では、諦めるべきなのはどんな時で、諦める勇気を持つには? 心理カウンセラーの小日向るり子さんが解説します。

仕事やプライベートで、「もうやめたい」「続ける意味が分からない」と感じたことはありませんか? また、そう感じた時、多くの方が「途中で諦めることはいけないのかも……」と考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、諦めることは良くないことなのでしょうか? 今回は「諦める」ということについて考えていきたいと思います。

「諦めない」ことが美学とされた理由

そもそも私たちは、どうして「諦めること=悪」だと思いがちなのでしょうか?

「諦めない」美学の背景

諦めることを良くないと考えてしまうのはなぜ? そう問われたら「親や先生からそのように教育されたから」と答える方は多いと思います。

それではなぜ、そうした教育が推奨されてきたのでしょうか? さまざまな理由が考えられますが大きな理由としては、社会や集団で活動するにあたっては、他人と異なる言動を取ることは統制する側にとってやりにくいからです。

学校の先生は、生徒全員が同じスケジュールに沿って、定められたカリキュラムを最後まで遂行してくれたら教えやすいですよね。また、家庭においては、子どもがドロップアウトせずに学生生活を終えてくれた方が世間体も保てます。

もちろんそう考える教育者や親ばかりではありませんし、さまざまな生き方を認める流れにはなってきています。ただ、それでもまだこうした価値観が主流ではあります。

そして、もう一つ。仕事においても、以前は労働の多くが手作業だったため「石の上にも三年」「継続は力なり」ということわざにもあるように、良質な物をお客様に提供するためには時間がかかっても諦めずに経験を積むことが大切だったのです。

しかし、IT化が進みコストパフォーマンスが重視される現代では、時間をかけることへの意識がガラッと変わりました。

「諦めること=悪」なのか?

結論からお伝えすると、諦めることは悪ではありません。

現在では、「諦める」という言葉は「物事を途中でやめる」という意味で使われていますが、元々「諦」という漢字は「真理・道理」という意味で、仏教用語で「諦観」といえば「物事の真理を見る」という意味です。

しかし、それが次第に真理を明らかにした先の選択の一つでしかない「やめる」のみに焦点が当たり、「根気がない、飽きっぽい」というネガティブな意味付けが主流となりました。

ただ、語源にあるように、自分と向き合い、物事の本質や真理・道理を明らかにした上での結論が「やめる」ということであれば、それは終わりではなく次につながる一歩を踏み出したということなのです。

▶次のページでは、なかなか諦めることができない心理を解説します。

次ページ:諦めることができない心理

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