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小説 結婚

「まだ結婚してないだけなのに!」第3話

白井 瑶

30歳までに結婚したいのに、20代後半で不倫をはじめてしまったOL・原田櫻子。彼女の未来はどうなる? 恋と人生に悩む全女性に贈る、白井瑶さんのオリジナル小説連載。

【これまでのあらすじ】
職場の上司・既婚者の観月壮亮と不倫関係を続ける、主人公・原田櫻子。実は壮亮の奥さんが妊娠中ということを知り、家に押しかけるも、幸せそうな2人の様子を目にして呆然とする。そんなとき、大学時代の先輩・樹から「家に来ない?」との誘いが。樹の作ったカレーを食べながら号泣する櫻子は、流されるままに樹と体の関係を持ってしまい……。

>前回のお話はこちら

彼氏以外と寝たのは初めてだった。

ひさしぶりの9時間睡眠。目覚めると頭はスッキリしていた。ここは大学時代の憧れの先輩の部屋で、わたしは下着と彼のTシャツ以外は何も着ていない。リビングには朝食が準備されていた。厚焼き玉子のサンドウィッチとサラダ。休日の朝にふさわしい素敵な朝ごはんだった。

「よく眠れたみたいだね」

彼が差し出すコーヒー。テレビのニュース。穏やかな会話。ひと晩あけても、樹さんはわたしの事情をたずねようとはしなかった。興味がないのかもしれないけど、今のわたしにはそれがありがたくもあった。樹さんの厚焼きサンドは、軽く焼かれたパンの香ばしさと中のふわふわのだし巻きのコントラストが絶妙で、ちょっと感動してしまった。食後に2人で食器を片づけ、玄関に向かうまでの間、「俺たち付き合う?」なんて話が出るかと実はドキドキしていたのだけれど、まったくそんな雰囲気もなく、そのまま笑顔で送り出された。

「忘れ物はない? また来てね」

原田櫻子、30歳を目前にして、不倫ならびにセフレデビュー。

バカバカしくて笑ってしまうが、不思議と気持ちは楽になっていた。で、だ。それからのわたしは、樹さんとより頻繁に会うようになった。以前のようなご飯だけのデートじゃなくて、会えば最後は必ず彼の家。平日は着替えを持って泊まりに行って、翌日樹さんの部屋から出社する。そして何食わぬ顔で、壮亮さんの部下として働いている。不倫の決着をつけないまま。

樹さんはどこまでもやさしく、わたしはそれに甘えきっていた。樹さんにとってわたしは都合のいいセフレだろうけど、都合がいいのはわたしも同じだったのだ。

翌々週の水曜日、わたしは茉莉乃に呼ばれて池袋のタイ料理屋に来ていた。

グルメな茉莉乃は各所にお気に入りのお店があるのだけど、このエリアははじめてだった。その上、遅刻魔の彼女が今日は余裕を持って家を出たらしく、先にお店に入っているという。珍しいなと思いながら、わたしは店員に予約の名前を告げた。

席に案内された時、一瞬テーブルをまちがえたのかと思った。茉莉乃と2人で会うはずだったのに、すでに別の2人が席についていたからだ。茉莉乃と、見覚えのある男の人。わたしに少しぎこちない笑顔を向けるのは、大学の同期の都筑慎二だった。

……どうして慎二がここに? そう思ったけど言えなかった。ちらりと見た茉莉乃の顔には、妙に落ち着いた笑みがはりついている。やられた、と思った。慎二と会うのは2年ぶりだった。

「久しぶり。前に会ったのは、三井の結婚式だっけ」

慎二がメニューを渡しながら言う。そう、後輩の結婚式で会ったのが最後だ。もっと言うと、二次会を終えて同級生だけで流れた三次会の席で、酔った慎二に告白されて以来。大学時代を含めると、実に4度目の告白だった。

慎二のことは嫌いじゃなかった。でも、どうしても異性としては見られなくて、告白は断り続けていた。当然そのことを知っている茉莉乃が、今このタイミングで慎二と引き合わせる意図がわからなかった。ちなみに慎二は今、埼玉で小学校の先生をしている。……あぁ、だから池袋。

「櫻子、全然変わってないね」

そう言う慎二はもっと変わってなかった。短い黒髪も、真面目そうな黒縁メガネも、まさに“先生”という感じ。ちょっと熱すぎるところもあるけど、弱い人に手を差し伸べて、悲しむ人のそばに寄り添って泣ける彼は、いい先生だろうなと思う。そう、慎二はいいひとだ。すごく。だからフるのもつらかったのだ。わたしは非難を乗せた視線を茉莉乃に送ったが、彼女は何食わぬ顔でシンハーの瓶に口をつけていた。

若干の気まずさを抱えながら、再会の時間はゆっくりと、びっくりするくらい緩慢に過ぎた。慎二は場を盛り上げるため、一生懸命話してくれた。わたしと茉莉乃はそれに合わせて、笑ったり相槌を打ったりした。はたから見れば、仲のいい友人の集まりだったのかもしれない。

慎二は現在、ミニバスケット部の顧問をしているらしい。朝も早いということで、2時間経たずに引き上げていった。帰り際、わたしの肩を軽く叩いて言った「また連絡していい?」に緊張が見えて、わたしはいたたまれない気持ちになった。この人は今日、わざわざこれを言いに来たのだ。

 

「ねぇ茉莉乃、どういうこと?」
「どういうことって?」

慎二が去ったテーブルには、食べ残したグリーンカレーやパッタイが行き場をなくして取り残されていた。無残に崩れた生春巻き。飾り切りされた人参を興味がなさそうに摘む茉莉乃は、なんだか白けたムードをまとっている。

「どうして今日、慎二を呼んだの? わたし、茉莉乃と2人だと思って来たんだよ」
「……慎二がいたら来なかった?」

茉莉乃は笑顔を作った。広告みたいな完璧な笑みだ。でもそこにはちょっとした敵意というか、嘲りというか、とにかく悪意が混ざっているのがわかったから、わたしは言葉に詰まってしまった。小顔の際立つ前髪なしのポニーテール、リゾート風のワンピースを着た茉莉乃。頬杖をつき、じっとこちらを見つめてくる。

「なんで? 慎二が嫌いなの?」
「嫌いじゃない、けど……」

そう、慎二のことは嫌いじゃない。でもいま会いたい人ではないのは、彼女にもわかっているはずなのに。

「ね、櫻子?」

妙にやさしい声色だった。こういうのを猫なで声というのだろうか。テーブルの上で握ったわたしの拳に、茉莉乃の小さな手が重なる。その柔らかさに、なぜか鳥肌がたった。

「30歳までに結婚したいって言ってたよね?」

子どもに言い聞かせるような口調。目の前にいる親友が、なぜか知らない女に見えた。知らない女は仮面みたいな笑顔のまま、私の反応を気にせず続けた。

 

「アラサーで不倫とかセフレとか、正直痛いよ」

「いいじゃん慎二で。まだ櫻子に気があるみたいだし」

「公務員。実家は地主で次男。人生最後の優良物件かもしれないよ」

何か言い返したいと思うのに、唇はひきつるだけだった。ずっと相談に乗ってくれていた茉莉乃。本当にこの子は茉莉乃なんだろうか。それとも、前からずっとこういうふうに思っていたのか。わからない。背中を冷たい何かで撫でられたような、得体の知れない気持ちの悪さ。薬指に指輪をしている華奢な手が、わたしの手をぎゅっと握った。揺れるポニーテール。顔を近づけ、わたしの顔を覗き込むように、茉莉乃が笑顔のまま告げる。

 

「ねぇ、櫻子のためを思って言ってるんだよ?」

 

>「まだ結婚してないだけなのに!」第4話に続く

(文・イラスト:白井 瑶)

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