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小説 片思い

「まだ結婚してないだけなのに!」第2話

白井 瑶

30歳までに結婚したいのに、20代後半で不倫をはじめてしまったOL・原田櫻子。彼女の未来はどうなる? 恋と人生に悩む全女性に贈る、白井瑶さんのオリジナル小説連載。

【これまでのあらすじ】
職場の上司・既婚者の観月壮亮と不倫関係を続ける、主人公・原田櫻子。実は壮亮の奥さんが妊娠中で、しかも数年前に会社の新卒女子にも手を出していたことを知ってショックを受ける。心身ともに疲弊しながら迎えた週末の朝、櫻子は「奥さんに会いに行こう」と決心し……。

>前回のお話はこちら

土曜日の朝、わたしはシャワーを浴びて身支度をはじめた。寝不足で肌は荒れ気味だし、目の下のクマもひどかった。いつもの倍の時間をかけ、ていねいにメイクして髪を巻く。ボロボロの心を補強するような作業だった。

その甲斐あって、少なくともここ数日の中では一番綺麗なわたしが完成した。

「……よし」

玄関に飾った花が枯れているのを見て見ぬふりをして、パンプスを履いて家を出た。おはようございます、いい天気。不倫相手の家への突撃日和だ。

まだ結婚してないだけなのに

年賀状の住所をたよりに、わたしは彼の住むマンションに向かった。タワーマンションの立ち並ぶ住宅地の中でも、ひと際立派な外観だった。こんなところの住人を狭い自宅に連れ込んで、「癒される空間をつくってあげたい」なんて思っていたとは、自分の愚かさにほとほと呆れる。

マンションはもちろんオートロックだし、受付にはスタッフがいた。インターホンで部屋番号を押そうとして、指が震えていることに気づいた。なんて言えばいいんだろう。こんにちは、あなたの旦那の不倫相手です。いや、とりあえずは部下を名乗って……。わからない。こんなのネットにも答えがない。心臓がバクバクする。立ち尽くす背中を、受付の人が不審な目で見ている気がして、わたしはいったんマンションを出た。

マンションを出て、改めて壮亮さんの住まいを見上げた。暴走し、熱くなっていた頭の中が急に冷めていくのを感じた。わたし、何やってるんだろう。不倫相手に裏切られて家に乗り込もうだなんて、安っぽいドラマみたいだ。そもそも不倫のくせに裏切りって。考えてみれば、この恋は奥さんへの裏切りの上に成り立っていた。今度はわたしが裏切られる番だった。それだけの話じゃないか。

馬鹿だな、本当に。

泣きたくないのに、目の奥が熱くて唇を噛む。ここにいちゃダメだ。もう帰ろう。そう思ったとき、マンションの自動ドアが開いた。まさかと思って身を隠したのは正解だった。出てきたのは夫婦連れ。わたしの彼氏で上司の壮亮さんと、お腹の大きな奥さんだった。インスタで見た通り、聡明そうな女のひとだった。

入り口前のほんの数段の階段で、壮亮さんは自然に奥さんの手をとった。当然のようにそれを受け入れた奥さんが、彼に向かって何かを言う。壮亮さんは白い歯を見せて笑っていた。どこにもつけ入る隙のない、完璧な夫婦に見えた。わたしは彼らに会いに来た。それなのに足が動かない。奥さんと腕を組みながら、壮亮さんはわたしに気づかずゆっくりと駅の方向に歩いていった。

……わたしは、何がしたかったのか。わからないけど、結局怖気づいて帰ろうとしたけど、少なくとも、奥さんを気使うスピードで遠ざかっていく彼氏の背中を見たいわけでは決してなかった。死にたい、いや、消えてしまいたい。夫婦と、これから生まれる子ども……そう、「家族」。彼らのまばゆい幸せの前で、わたしの欲望は自分勝手で醜悪で、そういうものを抱えた不倫女であるわたしは、どこにも居場所がない気がした。

そのとき、不意にスマホが震えた。壮亮さん! と思ったが、もちろんそんなわけはない。着信は、自分の恋心を分散させるために先日デートしたばかりの、大学時代の先輩・樹さんからだった。

「櫻子ちゃん、おつかれ〜! カレー作るから家こない?」

相変わらずのゆるい口調。わたしは壮亮さんの遠い背中を見つめたまま応えた。

「……はい、行きます」

あっさりとした承諾に、樹さんは少し驚いていた。駅まで迎えに来てもらう約束をし、通話を終えたときには、壮亮さんは視界から消えていた。

ーーー

待ち合わせ場所に、樹さんは上はTシャツ、下はスウェット姿で現れた。歩きながら聞くところによると、樹さんはカレー作りが趣味でけっこう本格派らしい。インドに行ったときにどうとか、スパイスの調合がどうとか話していたけれど、正直あんまり覚えていない。

樹さんの住まいは駅から徒歩10分のアパートで、古いが味のある建物だった。部屋はわたしの家より少し広いけど、本や服であふれかえっている。

「仕事を辞めて引っ越したから、物の量と部屋が合ってないんだよ」

断捨離しなきゃね〜などと言ってはいるものの、樹さんに取りかかる気はなさそうだった。

 

「はい、どうぞ」

つけ合せもなく、カレー単品と缶ビールが置かれたローテーブル。大きめの鶏肉が柔らかく煮込まれていて、味に複雑さと深みがある。なるほど、こだわっているだけある。久しぶりにまともなものを食べたなと思う。

「おいしい?」
「……はい」

そう応えた瞬間に、涙が落ちて自分でもちょっとびっくりした。そこからせきを切ったように次々涙がこぼれてきて、わたしはカレーの前でボロ泣きした。

「え、どうしたの?」

差し出されたティッシュで目元をおさえる。さすがの樹さんも戸惑っていた。

「ごめんなさい」
「いいよ、大丈夫。何か話したい? 話したくないならそれでもいい」

わたしが首を横にふると、樹さんは「そっか」と言ってわたしの頭をクシャっと撫でた。そして、泣いているわたしの横で普通にカレーを食べはじめた。思えば奇妙な光景だった。大学時代の先輩とはいえ、初めて行った男の家で号泣する女、その横でカレーを食う男。樹さんの皿が空になるまで、わたしは泣き続けていた。

「もう今日は泊まっていきなよ。風呂ためる間に、コンビニでメイク落としとか買ってきてあげる」

樹さんは笑いながら、バスタオルと着替えを手渡してきた。わたしはそれを受け取りながら、この家にメイク落としがないなんて意外だなとも思っていた。

 

そうしてわたしは風呂に入り、彼に貸してもらったTシャツを着て、案の定、貸した本人に脱がされることとなったのだった。やけになっていたわたしもたぶん、そうなることを望んでいた。壮亮さんを裏切りたかった。これが裏切りになるのかはわからないけど。樹さんは本当に何も聞かなかった。わたしは途中で涙が出てきたが、樹さんとこうなるのが嫌だったんじゃない。樹さんもそれをわかっていたから、適当にキスして流してくれた。やめないでくれるのがありがたかった。

その夜は、ひさしぶりにぐっすり眠れた。全部夢ならよかったなと、翌朝他人のベッドで思った。

>「まだ結婚してないだけなのに!」第3話に続く

(文・イラスト:白井 瑶)

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