秋葉原っていつから電気街だったの?秋葉原の変遷を聞いてきました!
アニメ・マンガ、さらにはメイド喫茶など、日本が世界に誇るオタク文化の発信地・秋葉原ですが、ほんの十数年前までは世界的に有名な電気街として栄えていました。では現在のようにオタク文化の発信地となったのはいつからなのでしょうか? また、どれくらい前から電気街だったのでしょうか?
秋葉原の街の変遷を、秋葉原電気街振興会の事務局長・荻野高重さんに伺ってきました。
●秋葉原の名前の由来は神社から
――そもそも「秋葉原」という名前はいつからあるのでしょうか? また、なぜこの名前がついたのでしょうか?
荻野さん 秋葉原という名前になったのは、江戸時代といわれています。江戸時代、「火事とケンカは江戸の花」といわれていたように、火事が多かったんですね。そこで、現在の静岡県にあった火除けの神様である秋葉大権現のご神体を譲り分けてもらい、この地に秋葉神社として祭りました。その神社の名前が秋葉原の由来、といわれていますね。
――秋葉原という名前は、神社の名前から取られたものなんですね。現在はその神社はないのですか?
荻野さん 現在はこの地にはありません。区画整理の際に別の場所へ移されました。
――それはちょっと残念ですね。今では非常に栄えている秋葉原の街ですが、ずっと昔から栄えていたのですか?
荻野さん 秋葉原は江戸時代初期は中山道の宿場として昔から栄えた場所です。また、近くを流れる神田川を利用して船で物資を運ぶなど、物が集まる場所でもありました。
――秋葉原は昔から栄えていた場所だったのですね。
荻野さん そうなんですよ。今でも昔の名残がいくつも残っていまして、例えば秋葉原駅を出てすぐの場所にある「秋葉原公園」。ここは周囲よりも少しくぼんでいるのですが、それは掘割の名残なんです。昔はここまで船で運び、物資を搬入していたんです。
――歴史ある場所でみんな休憩しているのですね。そう考えると贅沢です。
●電気街になったのはいつから?
――宿場町、または商人の町として栄えた秋葉原が、電気街になったのはいつごろからなのでしょうか?
荻野さん 本格的に電気街としての歩みが始まったのは、戦後だといわれています。戦後すぐ、内地へ帰還してきた兵隊さんたちが生活のために工業部品を持ってきて売っていたそうです。ほかにも露店ができる場所はありましたが、秋葉原は当時から人が集まる場所だったこともあり、多くの人が電気部品を売りに秋葉原に集まり露店を開きました。
――当時、露店はどれくらいあったのでしょうか?
荻野さん 当時の記録によると、神田須田町あたりで120の露店があり、その半分くらいが「電気部品」を扱っている露店だったそうです。
――そのときからすでにちょっとした電気街だったのですね。
荻野さん また当時は、電気工学関連の学校が近くにあり、そこの学生さんが手に入る部品を集めてラジオを組み立てて販売したりしていたと聞いています。
――現在の自作PCのようです。
荻野さん その後、昭和24年にGHQが『露店撤廃令』というものを行い、露店を禁止したことがありました。その際、秋葉原界隈で力を持つ方がGHQに生活を守るように要求しました。その結果、代替地として秋葉原駅のガード下に『ラジオストアー』『ラジオセンター』というものができ、そこに露天商の方々を集めることになりました。
――あのガード下はそういった場所だったのですね。知りませんでした。
荻野さん ラジオストアーやラジオセンターができたことで、電気街としての伝統が守られ、なおかつ発展していきました。戦後、こうしたことがきっかけで電気街として大きくなったのですが、実は戦前からこの秋葉原では家電卸をしていた人たちがいました。
――戦前から秋葉原では電気関係のものを扱っていたんですね。
荻野さん 例えば、『廣瀬無線』さんや『ヤマギワ』さんなどがそうですね。秋葉原には地方の小売業者が家電を仕入れに来たりしていましたので、戦前から秋葉原は電気の街としての認識がされていたんです。現在のように大きな電気街となったのは、やはりこうした戦前から頑張ってこられた方々の力もあったからだと思います。
●どんなに変わっても安心で安全な街に
――その後、世界でも名が知られるほどの一大電気街になった秋葉原ですが、現在のようにアニメやマンガといった文化の発信スポットに変ぼうしたのはいつごろからなのでしょうか?
荻野さん 家電だけでなく、アニメやゲームなどを取り扱うようになったのは少なくとも、15-20年ほど前からではないでしょうか?
――きっかけというのは何だったのですか?
荻野さん 家電の一つとして多くの店舗でパソコンを扱うようになり、その流れで今度はパソコンゲームを扱うお店が増えてきました。そうなると、今度はパソコンゲームの元となったアニメの商品を取り扱うようになりました。
――なるほど。始まりはパソコンがきっかけだったんですね。
荻野さん そうですね。きっかけの一つだと思います。
――では、現在の秋葉原の象徴の一つである『メイド喫茶』というのは、いつごろから登場したのでしょうか?
荻野さん 私の知っている限りでは、メイド喫茶はここ10年ほどですね。できた当初にどんなものか行ってみたのですが、現在のように多種多様なサービスを行うものではなく、メイド服の店員さんがただ給仕をするだけでした。客層も女性が多かったですよ。
――宿場町から電気街になり、現在はアニメやゲーム、そしてメイド喫茶などオタク文化の発信地と……秋葉原は大きな変遷を経てきた街なのですね。
荻野さん いまは本当にバラエティ豊かな街になりました。ただ、どんなに街が変わっても、秋葉原の街は誰もが安心して歩けて買い物ができる街でないといけないと思っています。こうした街づくりの根源にあることだけはずっと崩さないようにしていきたいですね。
秋葉原は江戸時代の初期は宿場町として栄えるなど、昔から人が集まる場所だったのですね。一大電気街となったのも、戦前から家電卸の方々が頑張るなど、その素養が街自体にあったようです。現在はオタク文化の発信スポットとなっていますが、今後はどのように変わっていくのでしょうか? 楽しみですね。
(貫井康徳@dcp)
秋葉原電気街振興会
http://www.akiba.or.jp/
※この記事は2013年05月25日に公開されたものです