結婚しない人生は不幸せなのか? 独身研究家の荒川和久さんが解説
結婚をしない人生ってどうなんだろう。揺れるアラサー世代。結婚願望もそこまでないし、結婚せずに生きていく未来も想像する。実際のところどうなの? 独身研究家の荒川和久さんに「ソロで生きる」ことについて、さまざまなデータなどを元に教えてもらいました。
結婚しない人生を考える連載「#ソロで生きる」。第1回のテーマは、結婚しない人生を選ぶ際に湧き上がる「結婚した方が幸せになれるんじゃないか」という不安について。
本当に結婚した方が「幸せ」なのでしょうか。考えてみたいと思います。
未婚者より既婚者の方が「幸福度」は高い
不思議なことに、幸福度は、未婚者より既婚者の方が高いというのが定説です。
それだけではなく、男女で比べると、男性より女性の方が幸福度が高くなります。年代別に見ると、男女未既婚とも大体40代の幸福度が低い傾向があります。
2020年の私のラボでの調査でも、同様の結果でした。
既婚男女で「不幸」と感じているのは、どの年代も2割以下です。
一方、未婚男女では女性より男性の不幸度が高く、40~50代未婚男性では幸福度より不幸度の方が高いという有様です。それほどではありませんが、40代未婚女性は最大24%が不幸であると感じています。
もちろん、これは私の調査だけではなく、国際的な世界価値観調査を見てもISSP調査においても、この傾向は一緒です。
日本だけではなく、全世界的に既婚者の方が未婚者より幸福度が高く、女性の方が男性より幸福度が高いということも、一部の例外はありますがおおよそ同じです。
しかし、これだけを見て、既婚は幸せで、未婚は不幸だと断じて良いものでしょうか?
こうした傾向を単純化してしまうと、「結婚すれば幸せになれる」という間違った解釈を生んでしまうことになります。これは、あくまで既婚者の方が幸福だと感じる人が多いだけであって、結婚すれば幸せになれるという因果関係を証明するものではありません。
「結婚すれば幸せになれるはず」は「結婚しない人生は不幸せ」の裏返し
とはいえ、とりわけ未婚女性の多くは、この「結婚すれば幸せになれるはず」という思考の罠に陥っています。
これは結婚以外でも同様で、「良い学校に入れば幸せになれるはず」「良い会社に入れば幸せになれるはず」という状態依存で、フォーカシング・イリュージョンと呼ばれます。
「フォーカシング・イリュージョン」とは、ノーベル経済学賞の受賞者であり、行動経済学の祖といわれる米国の心理学・行動経済学者のダニエル・カーネマンが提唱した言葉です。
「良い学校」「良い会社」「良い結婚相手」というように、ある特定の状態に自分が幸福になれるかどうかの分岐点があると信じ込んでしまうことを指します。しょせん、そんなものは「思い込みから生じる幻想」に過ぎないのです。
「結婚したら幸せになれるはず」という思考の人に限って、結果的に結婚を遠ざける可能性が高くなるし、たとえ結婚したとしても幸せにはなれないと思います。
結婚すれば幸せになれると信じ込む人は、仮にその状態を獲得しても、そこに幸せなんてものは無いってことに気付かされるだけなんです。あるのは、幸せではなく幻滅です。
特に、「○○すれば幸せになれる」的なハウツー論法に縛られている人は、一番不幸ではないかと思います。なぜなら、それは「○○にならなければ幸せになれない」と自己暗示をかけていることと同じだからです。
特定の状態依存は不幸せな人生への一本道です。
あなた自身は不幸体質じゃない? 診断でチェックしてみましょう。
「幸せ」の正体とは~結婚しない人生は不幸せなのか~
では、幸せとはなんでしょうか?
そもそも、「幸」という文字は元々「手かせ」つまり「手錠」の象形であるといわれています。手錠でつながれて不自由な状態が幸せというのは一体どういう意味なのでしょう?
この解祝については諸説あり、確かなことは分からないそうですが、「手錠をはめられている状態から解放されると幸せだから」という説もあります。
また、「幸」に「丸」と書くと「執」になります。「執」という漢字を使った熟語には、「執着」「固執」などがあり、あまり良い意味は感じられません。この「丸」という漢字は、ひざまずいて両手を前に差し出す人の姿を表します。差し出した先が「幸」という手錠ですから、これはどう考えても、逃げられない不自由な状態にさせられた人間を表しているでしょう。
どうやら「幸」という字はあまり良い意味ではないようです。
実は「幸せ」という表記になったのは江戸時代以降の最近の話で、元々は「仕合わせ」と表記していました。中島みゆきさんの歌の『糸』で使われているのも、この「仕合わせ」という漢字です。
「仕合わせ」とは、さらに語源をたどれば「為し合わせ」でした。「為す」とは動詞「する」で、何か2つの動作などを「合わせる」こと、それが「しあわせ」だという意味です。そう考えると「幸」よりも随分良い意味だと思いませんか?
つまりは、「誰かと何か行動を一緒にする」こと自体が「しあわせ」ということなのです。元々は動詞であったことから、「しあわせ」とは状態ではなく「しあわせる」という行動そのものだったことがうかがえます。
結婚や就職、さらにはお金を所有しているという状態に「しあわせ」はありません。結婚にしても、就職にしても、そこで誰と何をするのかが「しあわせ」なのであり、お金や時間に関していえば、そのお金と時間を使って誰と何をするのかが「しあわせ」なんだろうと思います。
いうまでもなく、その誰かとは異性に限らず、同性の友人であってもいいし、初対面の相手であってもいい。
つまり、「しあわせ」とは「人のつながり」であり、「つながった人と何をするのか」が問われているのです。
「しあわせ」は誰かとシーソーに乗ること
上段の話から、「状態にしあわせは無い。行動そのものがしあわせ」ということです。
「しあわせ」はシーソーで例えられると思います。
公園などにあるシーソー。そのシーソーの片側に自分だけが座っていても、動きませんよね? 自分一人だけではシーソーは動きません。必要なのが自分以外の人なのです。
多くの人は、自分が他人より下にいる状態が不幸なのだと考えてしまうでしょう。しかし、そうではありません。
また、シーソーが上がって自分の体が頂点に達した時だけが楽しいわけでもありません。それでは、自分の幸せのために誰かの犠牲を要求することになります。
「しあわせ」とは、シーソーが上に行ったり下に行ったりする過程の中で、刹那生じる中間地点にあります。誰かと何かを「なしあわせる」ことで生まれる一瞬のバランス状態。これが「しあわせ」の瞬間です。
よって「しあわせ」とは静止状態で享受できるものではなく、常に動的状態、つまり行動で繰り返し訪れるもの。寄せては返す波のようなものです。
「しあわせ」を感じる過程で、有頂天になったり、どん底の気分を味わったりすることもあるでしょう。でも、それこそが真ん中の状態を通り過ぎるための力点の一つになるわけです。
そして、シーソーをこぐ相手はいつも一緒の人である必要もありません。あなた自身も通りすがりで誰かのシーソーにいったん座っていることもあるでしょう。
幸と不幸、光と闇というように二項論で捉えがちですが、そんなものは無いのです。全てが通過点で、流れの中にあり、全てがつながっているのです。
「しあわせ」が、結婚や就職やお金持ちという何かの状態の中に「有る」という呪縛から、自分自身を解放してあげましょう。
「自分は未婚者だ」とか「自分は低年収者だ」とか、そういうどうでもいい状態属性に自分自身を閉じ込めてしまうことこそが、不幸そのものなのではないでしょうか。
シーソーに乗る相手は結婚相手である必要はない
結婚していようといまいと、恋愛相手がいようといまいと、友達がいようといまいと、私たちは、生きている限り、無意識に誰かと束の間のシーソーに乗っています。
仕事でも買い物でも、あなたの行動は何かしら誰かに影響を与えているものです。それもまた人とのつながりです。
人とのつながりは、最初は小さな点でしかありません。でも、その小さな点もつながりが増えることによって、一本の糸になります。さらにつながりが広がると、糸が交錯して、大きな布になります。まさに、中島みゆきさんの『糸』の歌詞そのままです。
「Be happy」ではなく「Do happy」へ。
幸せから「仕合わせ」へ。
本来の「しあわせ」を見つめてみてはいかがでしょうか?
(文:荒川和久、イラスト:coccory)
※この記事は2020年07月29日に公開されたものです