お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。

紫式部は二重人格だったって本当?

日本を代表する女流作家・紫式部(むらさきしきぶ)。源氏物語という超有名な長編恋愛小説を描き、紫の上をはじめ、美しく教養の備わった女性たちを登場させているものの、本人は極めてゆがんだ性格で、ライバルたちを批判し続け、とくに清少納言をディスりまくっていた。

【アインシュタインは、マリリン・モンローにプロポーズされたって本当?】

おまけに「源氏物語」の作者とも断定できず、後年に新訳を書いた与謝野晶子も「一人で書いたのではなさそう」と疑っているほど疑惑の作家だった!

紫式部、じつは正体不明?

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」という土佐日記の冒頭の一文は、誰もが一度は聞いたことがあるだろう。現代語では「男性が書いている日記を、女性もしてみようと思って始めました」の意味で、平安前期の当時、文学は男性のものだった。

実際は男性の紀貫之(きのつらゆき)が、私的なことを書くために女性に成り代わり、「かな文字」で日記を書いたとされているが、結果的に「女性も日記を書いても良いのかも!」という空気になったのかもしれない。

かな文字は女性にも親しみやすいものだった。なにせ当時、和歌が詠(よ)めなければ男女ともに結婚なんてできなかったのだ。たとえ、地位も名誉も金も美貌もそろっていたとしても、和歌が詠めなければ「ダサい奴」のレッテルを貼られてしまう。

そのため貴族は、娘がよい相手と結ばれるためにも、家庭教師を雇っていたのだ。

才女と呼び声の高かった紫式部は、天皇の中宮である藤原彰子(ふじわらのしょうし)の家庭教師を務めていた。このころから、源氏物語や紫式部日記を書いたのではないかとされている。

しかしこの紫式部、いつ生まれ、いつ亡くなったのか、ふんわりとしかわかっていない。もちろん本名もナゾだが、そもそも当時名前というものは、両親と夫くらいにしか教えないのが常識だった。

源氏物語に関しても、作者は紫式部だと断定されていない。なぜなら、紫式部日記のなかにある「源氏物語を褒められた」的な記述ぐらいしか証拠がないからである。後世に「新新訳源氏物語」を手がけた与謝野晶子(よさのあきこ)は、途中で作風が変わっていることから作者は2人なのでは?

と、疑問を唱えている。理由として、良く使う単語が変わった、盛り込まれる歌が減ったなどをあげているが、単に作風が変わっただけかもしれない。結論は出ないままだが、同じ女流作家同士、与謝野晶子は何かを感じたのかもしれない。

ゆがんだ性格は、雇い主が原因?

紫式部日記には、同時代に活躍した女流作家を批評するまさかの記述がある。当時の日記は読み手を意識した「ブログ」のようなもので、つまり悪口を公開しまくっていたのだ。

同じ彰子に仕えていた同僚の和泉(いずみ)式部のことは「まあまあ良いンじゃない?ちょっと男好きで浮気性だけど」と、褒めたりけなしたり。ところが、枕草子(まくらのそうし)で一躍有名になった清少納言(せいしょうなごん)に対しては「自分の知識をひけらかして、調子コイてんじゃないわよ!」と完全にこき下ろす始末…。

源氏物語の雅(みやび)な世界観をぶっ壊すほどに下品な人物だったのだ。

そもそも、清少納言が仕えていた藤原定子(ふじわらのていし)と、紫式部のクライアント・彰子はライバル関係だった。2人とも一条天皇の妻という立場にいたが、天皇は先に妻となった定子をものすごく大事に想っていた。

しかし、彰子の父は時の権力者・藤原道長(みちなが)で、いくら娘が愛されなかろうが、どうしても息子がほしかった。結果的に定子の死によって彰子に軍配があがるのだが、そういった背景から生まれた清少納言に対する強いライバル意識が、ヒステリックな批判に発展したのだろう。

まとめ

・平安時代の女流作家は、極めてめずらしい存在だった

・源氏物語の作者は、「紫式部だ!」と断定できる証拠がない

・いまのブログに相当する「日記」で、ライバルたちをディスりまくっていた

紫式部が彰子に仕える頃には、すでに定子は亡くなり、清少納言と顔を合わせることはなかっただろうが、宮中には定子派の人々が根強くいたという。居心地の悪さは容易に想像できる。

そして、教養のありすぎる紫式部への風当たりも厳しかったことだろう。強い自分を保つためにも、二重人格とも思えるようなキツイ批評が必要だったのかもしれない。

(沼田 有希/ガリレオワークス)

※この記事は2014年12月07日に公開されたものです

SHARE