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年200回以上も行われる自腹覚悟のイベントが頭痛の種! 遊女も苦しんだ営業ノルマの実態

浴衣みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。

前回は特殊な価値観に支配された、吉原の世界を覗き見しました。遊女たちは自分を光り輝かせてくれる、ファンの男性たちの奉仕精神と多額の投資に支えられていたのですね。くりかえしますが、格式高い遊里である吉原で、遊女として商売するには、とにかく金がかかったのです。ステイタス=格式の高さ自体が、遊女自身にとって、かなり恐ろしい、厄介なものだったような気がします。

ほかに遊女たちを、恐れさせていたのは日々のイベントでした。江戸の吉原をはじめ、京都の島原もそうでしたし、全国の遊里には、紋日(もんぴ)とか大紋日(おおもんぴ)とよばれる、奇妙な制度があったのです。

簡単にいうと、紋日とは遊郭におけるお客様感謝デーです。サービスの一貫として、遊女は特別な扮装をしますし、遊郭の内装も特別なものとなります……が、遊女たちの扮装費用は基本的に、馴染みの客持ちです。また、遊女のお花代がふだんの何倍も……酷い場合は4倍以上もかかったとか。

具体的な資料があまり残されてはいないので、実情はナゾにつつまれていますが、1年のうち、紋日関連日はなんと200日以上あったとか(笑)。逆に、ほとんどが紋日だったのですねぇ。

しかし……いくら「太い客」を抱えていても、上級遊女になればなるほど、盛大な扮装をしてみせる必要があり、遊郭の経営者側がおしつけてくる紋日の扮装なり、営業ノルマは遊女たちの頭痛のタネでした。

傍目には優雅な、吉原の年中行事と紋日を追ってみましょうか(旧暦で表記)。正月は1日から7日までがいろんな年始行事アリの特別営業ウィーク。3月3日の「桃の節句」には、雛人形を飾る場合もありました。3月には「野掛け」と称し、お客は抜きで気ままに仲間たちとピクニックして遊べる祝日が、1日だけ、吉原の遊女にも認められていました。

旧暦三月は江戸で桜が咲く頃にあたります。18世紀半ばからの風習だそうですが、吉原の目抜き通りに桜の木が大量に植えつけられました。一説に数千本ほど、という資料もありますが、豪勢な眺めだったとか。桜の葉には毛虫が付くからでしょうか、花が散るとすぐに桜の木々は撤去されてしまいました。

5月5日は、現在では「子どもの日」になっていますが、吉原では逆。ある遊女の禿(かむろ)がこの日、ケガをした故事があるため、15歳以下の子どもは吉原に入場禁止でした(それ以外の日は、子どもも入場可能だったんですね)。

7月7日の七夕、遊女は特に想いをよせる客の名前を短冊に書きます。しかし、好きな男性を吉原では、「敵」と表現しました。理由は不明ですが、誰か好きな人がいれば、不特定多数と恋愛遊戯する遊女商売が辛くなるからかもしれませんね。現在では「相方」という言葉が漫才の相手や恋人、つまり「パートナー」を指す意味で使われています。もともとは「敵方」と書き、吉原用語だったようですが。

8月1日は「八朔(はっさく)」と呼ばれ、旧暦ではすでに秋もなかば。本来は穀物の新たな実りを感謝する日なのですが、吉原では遊女全てが白無垢姿になってお客を迎えました。当時、花嫁は白無垢姿というわけでもなく、むしろ白無垢=闘病着でもあったのですが、馴染みの客を病床でも一途に待ち続けた、白無垢姿が比類ない美しさだった高橋太夫というカリスマ遊女にちなんだイベントだったとか。

……というように言葉にすると優雅ですが、遊女商売は年中いそがしく、また莫大な経費がかかったのです。客がお金を出してくれなければ、身銭を切らねばなりませんしね。つまり、遊女も「自爆営業」覚悟の日々だったのです。

しかし、遊女たちをもっとも困らせたのは、頻発する火事でした。江戸時代で250年近くの吉原の歴史の中で27回ほど、つまり9年に一度は必ず大規模な火事が起きており、そのうち19回ほどが吉原全焼です。火元は遊郭での不始末だったり、遊女が逃げ出したくてした付け火だったり色々あるんですけどもね。

1864年と1866年には年に2度も大火事が起きており、吉原はとにかく炎上しすぎなのでした。遊女の吉原暮らしはお客との関係の他にも、苦労が多かったのですね!


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著者:堀江宏樹
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※写真と本文は関係ありません

※この記事は2014年10月19日に公開されたものです

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