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生きていくためには手段を選ばず! コスプレ系遊女も……江戸時代の不思議な娼婦たちの実態

堀江 宏樹

女性京都では昼は御所で働く下級職の女性たちがこっそり夜間に外出し、「畳わづかに三四畳並べ」た粗末な店で売春するのを「御所うら」と呼んでいたそうです。これを記した滝沢馬琴によると、19世紀はじめにはすでに絶滅したタイプの娼婦だったそうですが。
今回は、江戸時代の不思議な娼婦たちについて触れようと思います。
そもそも尼さんを見てすら、彼女が実はパートタイムの娼婦かもしれないと考えなくてはならないのが、江戸時代の常識でした。
江戸庶民たちから信仰をあつめ、そのお札がありがたがられた熊野大社の比丘尼(尼)を自称する、尼姿の売春婦もおりましたからね。
その伝統は中世にまでさかのぼり、古くは信仰の大事さを説いてまわる巡礼的な存在が熊野の比丘尼でしたが、そのうち歌を歌って聞かせるようになり、やがて売春業も兼ねるようになった……とか。芸能分野に手を染めると、それは身体を売り買いすることも認めたも同じという感覚は、現代ではちょっとありえませんよね。

京阪でも比丘尼は娼婦として営業はしていましたが、むしろ江戸で人気がありました。江戸で売春婦としての熊野比丘尼が一般化したのは17世紀末頃のようです。
「眉細く墨を引き(略)、しほらしい目元に訳をほのめかし」、などと資料にはあり、いかにもワケありの尼っぽく、セクシーなフェロモンをばらまき、男性を誘惑していたことがわかります。安永・天明年間(1772-1789)には流行が終わってしまったそうですが、一種のコスプレ系遊女といえるでしょうね。もちろん幕府からは非公認の存在でした。

コスプレ系の遊女といえば、大坂・新町遊郭の富士屋という店が発端となり、大人気を得たという「若衆女郎」に触れずにはいられません。陰間の美少年の真似をした女性というだけでなく、男装の麗人として、特殊なお色気を放出していたようです。
最初に「若衆女郎」になったのは、遊郭では最下層、不人気遊女あつかいの「端女郎」のランクに甘んじていた女性が、どうすればもっと売れるかを考えた結果でした。彼女の源氏名はなんと「千の助」。端女郎の値段で、よい若衆(陰間)を買うことはできませんでしたから、ここらへんも商人の街の遊郭らしく、お得感があるのがよかったのでしょうか。

千の助は当時の不良少年の格好をしていました。いわゆる「ちょんまげ」を結っているだけでなく、衣装の裾を短く切り、ボーイッシュで、あやしい色香を醸し出していたのです。これがお客に大当たりし、千の助の姿を一目見ようと人々は列をなし、その噂を聞きつけて若衆女郎をマネをする遊女が増え、堺・奈良・伏見のほうまで流行が広がったそうです。
保守的なファンには男装は不評だったそうですが、何時の世も、セルフプロデュースの能力が高い女性ほど、うまく生き残っていけるわけでしょうね。

(堀江宏樹)

※写真と本文は関係ありません

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