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吉原の遊女は28歳で自由の身に!? 吉原を出された遊女の意外なその後とは?

堀江 宏樹

女性みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。今回は吉原のちょっと意外な話をしてみたいと思います。

吉原のハイクラスな遊郭の遊女たちは、豪華な衣裳やかんざしで美しく着飾っていましたが、それらをふくめ、身の回り品の多くがなんと自腹でした。借金の返済など進むわけがありません。「落籍(らくせき)」といって、遊女を妻や妾にできる制度がありましたが、それには莫大な金がかかりました。

それでも仕事を続けて27~28歳になれば、年季があけて自由の身になれたのですね。しかし大半の遊女は性病や堕胎、ストレスなどで肉体を蝕まれ、若くして死んでしまいました。

年季明けの元遊女は、関係者(スタッフ)として遊郭経営に携わりつづける場合もあれば、お客と恋愛結婚して、堅気の身分に戻る女性もいました。

「吉原ちょっといい話」として、落語にもなっているのが「幾代餅」のエピソード。お金はないけれど、誠実な米屋の清蔵と恋仲になった幾代太夫(いくよだゆう)と呼ばれる遊女がいました。吉原の遊女には階級があり、そのトップが「太夫(たゆう)」なんですね。幾代が現役時代につとめた「太夫」という称号は最高クラスの遊女にしか与えられませんでした。吉原に1,500~2,000人ほどいた遊女の中でも「太夫」は、なんと3~5名程度でした。

恋人の男に、自分を落籍させるだけの甲斐性がないので(笑)、幾代太夫は年季が明けるまで立派につとめを果たし、二人は晴れて夫婦になりました。その後、二人は餅屋を経営することなり、その時売ったのが「幾代餅」です。焼いた餅にあんをまぶした、あんころ餅のようなものですね。

太夫を引退した幾代は、今でいえば「会いに行けるアイドル」。雲の上の女だった幾代が、自分のために餅を焼いてくれると感動した客が殺到したそうです。

「幾代餅」といわれるお菓子は幾代と夫の死後も売れ続け、両国エリアの名物となりますが、商標登録などなかった当時、類似品が多発しました。お互いが「われこそ元祖だ!」と言い合うようになり、明治時代になる前に自滅していったとか……。

ちなみに幾代が勤めた「太夫」の位を持つ遊女のお花代は超高額だったこともあり、吉原の大衆化が進む中で、18世紀半ばには消滅してしまいました。なお遊女を指す「花魁(おいらん)」という言葉が出来たのは、「太夫」などスーパーハイクラスな遊女が消えた後のことです。

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著者:堀江宏樹
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※写真と本文は関係ありません

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