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「天才」の特徴と正体。天才になる方法とは

尾池哲郎(工学博士)

世界の偉人には「天才」と評される人が数多くいます。この「天才」とはどういう人を指すのでしょうか? 天才の定義とは。また今から天才になる方法とは? 工学博士の尾池哲郎さんに教えてもらいました。

私は天才とは真逆の凡庸な人間です。しかし光栄にも、天才について何か書けるのではと依頼を頂き、おこがましくもこれを書いています。

幸い天才に出会ったことがありますので彼の言葉をヒントに、天才とはいったいどういう人を指すのか、また、私のような凡人が天才に近づく方法はあるのか、考えてみます。

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過去の価値観の延長線上に天才はいない

天才といえば、科学ではアインシュタイン、ガリレオ、湯川秀樹。芸術ではゴッホ、ピカソ、山下清。スポーツではマイケル・ジョーダン、メッシ、イチロー。産業ではエジソン、ジョブズ、井深大。

彼らの偉業は国境を越えて賞賛され、天才に文化の差はないように見えます。しかし一体何が天才を生み出すのかという解釈については、日本と欧米に大きな隔たりがあります。

日本は良くも悪くも横並びです。できる子は褒められ、その中でも特にできる子が天才と呼ばれます。逆にできない子はそうではないと受け止められます。その評価軸はどこまでも、過去の価値観の延長線上です。

欧米には天才を象徴する言葉があります。「ギフテッド(Gifted)」という言葉で、宗教的背景もあり、神から授かった能力という意味が込められています。

日本と決定的に異なるのは、学校のカリキュラムではギフテッドを見つけにくいという理解がすでに一般的であることです。学校でできる子は努力をしている秀才として賞賛は受けますが、天才に見られる飛びぬけた「独創性」「好奇心」「集中力」と必ずしもイコールではないと認識されています。そのためギフテッドを見つけるためのユニークな取り組みや、ギフテッドのための特別なカリキュラムがあります。

天才への理解については欧米の方が日本よりも進んでいるように見えます。

しかし私は、このギフテッドに対してもまだ違和感を覚えてしまいます。なぜならギフテッドという名称から「大人が期待する何か」というものが透けて見えるからです。

天才たちは自分の才能を「ギフト」と感じているのでしょうか。ありがたく感じる気持ちは当然あるとしても、彼らは自分の内なる才能ではなく、もっと遠くの別の方向を見ているような気がしてなりません。

宇宙の謎に迫る量子力学という最先端分野の天才に、ノーベル賞を受賞したリチャード・ファインマンがいます。彼はそうした既存の価値観の狭さに関連するような言葉を残しています。

「もし量子力学を理解できたと思ったならば、それは量子力学を理解できていないということだ」(If you think you understand quantum mechanics, you don’t understand quantum mechanics.)

「記憶力が優れている」「計算が速い」「大人にとって何か便利な能力を授かっている」。そのような既存の価値観で能力を分類しようとした時点で、天才自身が見ている方向とズレているのではないでしょうか。

天才を定義するためには、できるだけ天才の立場に立ち、天才と同じ方向を見るべきだと思います。少なくともその方向に見えてくるのは大人が期待する「便利な才能」ではないはずです。

では何が見えてくるのでしょうか。私が出会った天才からヒントを探ります。

天才が見ている風景

天才に会ったといっても、私から見て天才に見えただけで、本人は自分を天才とは思っていないでしょう。しかし大学で出会った時、私はたしかに彼を天才だと感じました。

それは大学3年生の時、物理化学Ⅲという講義を受けていた時期です。まさにファインマンが登場する量子力学の授業でした。

出てくる波動関数が、私にはどうにも理解できない。そこでその友人に説明を求めました。するとすらすらと説明してくれるので、彼が理解しているということは理解できましたが、ある瞬間についていけなくなり、やはり私は理解できませんでした。

私は理解することをあきらめて、話を変えました。

「理解するための何かもっと根本的なコツでもあるのか?」

すると彼は意外なことを教えてくれました。

「2つしかない。簡単な例に置き換えるか、図や絵にするか。幼稚園の時からこの2つしかしてない」

彼から聞いた具体的な話はこうでした。すこし数字が並びますが、簡単な計算です。

たとえば「時速100kmで7分走ると何km進むか?」という問題があるとします。

普通の計算では、60分で100km進むわけなので、まず100を60で割り、1分当たりに進む距離を出して、それに7を掛けると答えがでます。しかし電卓が必要です。

ところが彼は頭の中ですぐに簡単な例に置き換えます。

この問題が分かりにくいのは時速100kmの部分ですので「時速60km」を使います。時速60kmなら1分に1kmですから、7分なら7km進むとすぐに分かります。

時速100kmは時速60kmのだいたい2倍の速さだから7kmの倍なら14km。

しかし実際の2倍である時速120kmよりも少しだけ遅いから「12kmくらいかな?」とつぶやきます。彼によるとここまで3秒かかりません。

実際に電卓を叩くと11.6で約12kmです。電卓の答えを見た周りの人は驚きます。

たとえここで13kmと答えたとしても、やはり周りはすごいと感じるし、本人も「ちょっと外したか」と思うだけで、次のために頭を微調整するでしょう。彼の能力はさらに向上します。

彼によると、どんな問題にどんな種類の例が当てはまりやすいかの判断は、スポーツに近く、長年の練習で積み上げてきた無数の「簡単な例」の中から直感的に拾い上げるイメージだそうです。

幼児期からずっと毎日、それを繰り返してきたというのです。勉強にかぎらず、日常生活でも。毎分毎秒全てがこのような「イメージ先行型」で、簡単な例に置き換えるスキルはめきめき上達します。

天才の幼児期を辿ると、そうした独特なイメージ先行の風景が見えてきます。彼らの世界に漂っているのは数式や文章よりも、もっと抽象的に漂う数字や音の風景なのではないでしょうか。

天才は二種類いる?

その後社会に出ると、彼と同じようなイメージ先行型の天才に出会うことがありました。そのうち、天才には二種類あるのでは、と感じるようになりました。

大学の時に出会った先述の彼はいつもどこか物憂げで、自分の才能とは別のところに興味を抱いているような人でした。

ところがもう一方の天才は、たしかに同じようにイメージ先行型で、判断も速く、知識も豊富なのですが、自分の才能に酔いしれているところがありました。

2人の天才の違いは、見えている風景をパズルに例えると分かりやすい気がします。

大学で出会った天才は、パズルの完成にしか興味が湧かないようでした。

しかしもう一方の天才は、パズルの完成よりも自分の才能というピースがその風景のどこかにぴったりハマっていくことの方に喜びを感じているようでした。ピースがはまると気持ちがいいし、周りが褒めてくれるともっと気持ちがいい。その喜びが高じて、自分は天才かもしれないと感じているフシもありました。

しかし真の天才とは、大学の時に出会った彼のほうだと思いました。

天才が自分自身を天才と呼ばない理由がよく分かります。「自分の才能」やそれによる「周囲の評価」には興味がないのです。パズルの完成にしか、興味はない。しかもなかなか完成しないパズルに、焦りを感じています。

大学の時の彼が、しばしば一人で寂しげにしていたり、世の天才たちが精神的な病理に悩まされる理由も理解できたような気がしました。彼らはおそらく、できない私以上に、いつまでたっても目標に到達できない自分にいらだっているのです。

天才の定義と天才の正体

ここで私なりの天才の定義をまとめます。

天才の定義とは

天才とは、誰も見たことがない風景が見えてしまい強烈に感動している人のことです。

しかもその風景に到達するための方法がなんとなくつかめているために、才能の鍛錬に恐ろしい集中力をみせます。結果として周囲に「天才」と認識されることになりますが、才能は本人にとって道具でしかありません。

しかもその才能は急がなければ到達できないという焦りによる結果ですので、目的以外にその才能を利用されることに嫌悪感を覚えます。

すべては彼らが見ている「風景」が彼らを天才に見せていますが、その風景は過去の価値観の中で生きる人々には想像しにくいものです。

つまり「天才」の正体とは

天才とは、誰も見たことがない風景が見えてしまっている人のこと。

そしてこの「見えている」ということこそが、天才の最大の強みです。

なぜなら、見えていれば進むことが怖くないからです。未知の世界へ踏み出す一歩を妨げるのは、恐れです。恐れは、見えていないことから生じます。

車の運転がそれほど怖くないのはブレーキがついているからですが、それだけではありません。一度ブレーキを踏んで止まった経験をしているからです。止まった時の自分をイメージできるから怖くないわけです。

身震いするほどの素晴らしい風景を目の当たりにし、そこに到達するために才能を磨き上げ、到達するための前進を全く躊躇しない人。それが天才の正体です。

今からでも天才になれる?

ということは、そのとびきりの風景にさえ会うことができれば、私たちにもすばらしい「創造性」「好奇心」「集中力」が芽生え、天才になれるのかもしれません。

とにかくそのとびきりの風景を見てしまうまではインディ・ジョーンズのように片っ端から冒険すればいいのではないでしょうか。そこにしつこさは必要であっても、才能はあまり関係なさそうだから、誰でも参加できそうです。

唯一気がかりなのは、やはり過去の尺度を持ち出して、既存の常識であれこれ評価したがるシステムの存在です。特に小学校の通信簿は、次のような注意書きが必要かもしれません。

「成績は一部の才能を測っているにすぎません。深刻に受け止めすぎると健康を害する恐れがあります。未知の才能については各自、探索を怠らないように」

これまでの天才が教えてくれるのは、その天才の入り口となる風景は無限にあるということです。天才が見ている風景は、過去の常識にも、既存の物差しにもとらわれません。つまり自分にとっての天才の入り口は、思っているよりもたくさんあるということです。

前に進まないから見つからないだけで、進んでみると無数に転がっているはずです。

生物の能力は想像以上にはるかに膨大。それに比べて私たちが勉強している内容はあまりに狭く、スポーツが教えてくれる身体能力も、私たちが生まれ持っている可能性からすればあまりに狭い。

様々なことを経験し続け、いつか目の前に誰も見たことのない風景が広がったとして、とてつもない集中力が込み上げてきたとしたら、それは天才への入り口に立ったということかもしれません。

そうだとしたら、鳥肌が立つはずです。

私はいつか必ず、そこに立ってみたい。

(尾池哲郎)

※画像はイメージです

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