徳川埋蔵金を掘り起こしてはいけない? その理由や「かごめかごめ」との関係を解説
埋蔵金は実在する?

そもそも徳川埋蔵金は本当に存在するのでしょうか。実は日本各地には数多くの埋蔵金伝説が残されており、中には実際に発見された例もあります。これらの事例を見ていきましょう。
(1)武田信玄の埋蔵金
甲斐の虎と恐れられた戦国武将・武田信玄にも、埋蔵金伝説が語り継がれています。武田家が滅亡する直前、信玄が蓄えた莫大な軍資金をどこかに隠したという言い伝えが残されているのです。
有力な候補地とされるのが、甲州市にそびえる鶏冠山(けいかんざん)です。また、諏訪湖の湖底に沈められたという説もあります。
(2)豊臣秀吉の埋蔵金
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、自らの死後、愛する息子・秀頼の将来を案じて財宝の一部を密かに移したという伝説を残しています。大坂城から多田銀山(兵庫県)へと運ばれたとされるその金額は、実に4億5000万両とも言われています。
この金額を現在の価値に換算すると、なんと200兆円にも達するという試算も。日本史上でもかなりの規模の埋蔵金として、多くの探索者の興味を引き続けています。
(3)明智光秀の埋蔵金
三日天下で知られる明智光秀ですが、本能寺の変の際に織田信長の本拠地・安土城から持ち出した大量の黄金を琵琶湖に沈めたという説が存在します。
光秀の埋蔵金は「護法救民の宝」とも呼ばれ、単なる私財ではなかったとされています。この財宝は、いつか人々を救済するために使われるべきものとして隠されたという言い伝えがあります。
(4)結城家の埋蔵金
平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将・結城朝光が源頼朝から賜った恩賞が、どこかに埋蔵されているという伝説があります。その資産は、砂金で数百樽、竿金で数万本などといわれています。徳川家康もこの埋蔵金を掘り起こそうとしたそうですが、結局見つかっていません。
(5)鹿島清兵衛の埋蔵金
埋蔵金は伝説だけではありません。1963年、東京都中央区の日清製油(現:日清Oillio)本社ビルの建築現場で、実際に埋蔵金が発見されました。発見されたのは大量の小判で、当時の価値で6000万円といわれています。
これは豪商の跡取り養子である明治期の写真家・鹿島清兵衛が隠したものと判明し、子孫に返還されたといいます。
(6)小松ストアーで見つかった埋蔵金
1956年、小松ストアーの急店舗を取り壊した跡地を掘った土の中から、小判が発見されるという出来事がありました。発見されたのは慶長小判、享保小判など。
小松ストアーは小判の所有権を放棄したため、これらの小判は文化財として東京国立博物館に収蔵されています。
(7)山形県白鷹町で見つかった埋蔵金
1961年、山形県白鷹町にある最上川の川底から、小判23枚をはじめとする計72両1分が発見されました。これらの小判は江戸時代に発行されたもので、商人からの依頼で小判を届ける最中に、発見場所付近でおぼれた飛脚が落としたのではないかと考えられています。
現在、これらの小判は白鷹町が管理していますが、川底にはまだ発見されていない小判が眠っている可能性があります。
徳川埋蔵金を掘り起こしてはいけないといううわさは昔から存在する

徳川埋蔵金の存在を示唆する資料や暗号は多く残されていると考えられているものの、150年以上経った今も発見には至っていません。
しかし、すでに発見されているが掘り起こすと歴史認識が変わってしまうといった説も存在します。
徳川埋蔵金の真相が明らかになる日は来るのでしょうか。それとも、永遠に謎のままなのでしょうか。徳川埋蔵金の伝説は、これからも多くの人々の想像力をかき立て続けることでしょう。
(LIB_zine)
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※この記事は2025年11月21日に公開されたものです