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黒船から日本を守ったのは、お相撲さんだって本当?

鎖国の眠りから日本を目覚めさせた黒船。上陸を強行する覚悟でやってきたペリーが、武力行使しなかったかげには「お相撲さん」がひと役買っていたのはご存じだろうか。

科学水準はもちろんのこと、体格で劣る日本はなにかにつけてナメられっぱなしだったが、力士たちが米俵を運ぶパフォーマンスを披露し怪力ぶりを見せつけた。非公式ながら米兵3人を相手にした「親善試合」にも勝利し、アメリカをけん制する役目を果たしていたのだ。

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米を運んで威圧する

ペリー率いる黒船が最初に浦賀に訪れたのは1853年で、目的は「開国要求」だった。実質的には「強要」であり、応じなければ武力を持って上陸する覚悟でペリーは臨んでいた。そのため、新造艦・プリンストン号を使う予定だったが、9ヶ月も工期が遅れたのに加え、新設計のボイラー(=エンジン)に欠陥がみつかり、軍艦としての性能が発揮できないことが発覚した。

やむを得ず旧式のミシシッピ号がその役を果たすことになったが、ペリーにとっては使い慣れた船であり、かえって好都合だったのかもしれない。

当時の日本は「鎖国」と表現されるものの、唯一オランダとは貿易がおこなわれ、その筋からアメリカ艦隊が日本に向かっていると聞いていた。ところが、どう対応すべきか結論が出ないまま「ぶっつけ本番状態」でペリーが来日する。

結局は将軍の病気を理由に延期を要求。ペリーはこれに応じ1年後に再度訪れることになった。

I?ll be back!

ペリーが再び浦賀に現れたのは翌1854年だが、じつは約束よりも半年も早く来日した。結論をせかされた日本は同年3月31日に日米和親条約を締結。ナメられっぱなしの日本が調印後の祝賀会に連れてきたのは、なんと力士たちだったのだ。

「ペリー提督日本遠征日記」からその様子を抜粋すると、

・アメリカ大統領への贈答品として、200俵ほどの米が用意された

・1俵=約60kg

・25~30人の筋肉りゅうりゅうの男達が、すっぱだかで集まってきた

集まってきたのは、当時人気を博した大関・小柳をはじめとする「お相撲さん」だ。

ペリーは「肥え太らせた雄牛」「激しい運動など無理」と軽んじていたが、力士たちが右肩に2俵ずつ担ぎ黒船に運び込み始めるとさすがに驚きを隠せなかったようで、なかには口にくわえて運ぶものや、1俵を両手に抱えてとんぼ返りをするものもいた、と克明に記している。

60kgもの荷物を持ったまま宙返りを決める巨漢をみれば、軍人として興味を示すのも当然だろう。

3対1でも負けません

腕っぷしに自信のある米兵たちはこれに黙っていられなかった。力士たちのデモンストレーションに触発され、試合にまで発展したのだ。

日米とも、

・けんかではなく、スポーツとしての「試合」

・相撲のルール

なら問題なしとして「親善試合」がおこなわれることになった。幕府が許可したのも、勝算があってのことだろう。

相撲を知らないハンデを埋めるため、米兵3人を同時に相手にする変則マッチとなり、日本側は大関・小柳がこれをつとめた。結果は小柳の圧勝で、一人を持ち上げ一人を小脇に抱え、残りのひとりを踏みつけて動けなくし、観ていた米兵もやんやの喝采を送ったという。

この親善試合は「日本相撲史」「横浜市史」など複数の文献にみられるが、残念ながらペリーの日記にはなにも記されていない。いくら余興とはいえ、米兵3人がたったひとりの日本人にかなわなかったことは、提督の立場からすれば脅威と同時に屈辱だったに違いない。

その後に下田条約/日米修好通商条約へと発展するさいも戦争を回避できたのは、このできごとがあってこそといえるだろう。

ごっちゃんです。

まとめ

・日米和親条約の祝賀会を盛り上げたのは、当時人気の力士たち

・60kgの米俵を口で持ち上げる、抱えて宙返りするなどのパフォーマンスを披露

・米兵3人との変則マッチをおこない、大関・小柳が勝利

・最初はナメていたペリーも、ショックを隠せず日記に記録

(関口 寿/ガリレオワークス)

※この記事は2014年10月26日に公開されたものです

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