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自分の意思がない人の特徴とは。意思を持つための克服法3つ

マドカ・ジャスミン

自分の意見を言うのが苦手……。そう思って何も言わないと、周りから「この人は意思がない」と思われてしまうかもしれません。そうなった時、一体何が起きるのか。コラムニストのマドカ・ジャスミンさんが語る、「自分の意思がない人」の末路とは。

はっきり言おう。この世に自分の意思がない人間なんて存在しない。

集団から個人に重きが置かれる時代となった今、明確な意思がないことはご法度とされる風潮にある。

しかし、少し考えるだけで、私たちは日々意思を持って生きているとわかるだろう。

「あれを食べよう」「ここに行きたい」「好きな人の恋人になりたい」「転職したい」。
日々何気なく抱いては消えていくこれらでさえも、れっきとした自分の意思なのだ。

「自分の意思がない」と言われたことがある人へ

意思がない人間なんて存在しないといったが、こう反論する人もいるだろう。

「でも、自分の意思がないから意思を持てと言われたことがある」。

「自分の意思がないことを非難された」。

だけど、安心してほしい。そして、もう一度言おう。自分の意思がない人間なんて存在しない。

ただし、こうも付け加える。

自分の意思をうまく言語化できていない場合や、あるはずの意思をないと勘違いしている人はそれなりに多い、と。

さらには、その勘違いによって「自分なんて……」と悲観的になってしまい、延々とそのループの中でもがき苦しんでいる人もいる。

こうしてみると、「意思がない」と評され、自分でもそう深く思い込むことがいかに恐ろしいかが理解できるだろう。

自分の意思がない人の4つの特徴

一体どういう特徴があると、自分の意思がない人だとカテゴライズされるのだろうか。考えうるものをいくつか挙げてみた。

(1)感情表現が乏しい

無表情で感情表現が乏しい人は、他人から見れば意思を感じられないと思われてしまいがちである。

本人としては精一杯の表現をしているつもりでも、相手にはまったく伝わっていないことも多々ある。

人は、意思と感情が密接に関係していると捉えがちなので、何かの出来事や物事を前にしても表情があまり動かないと、「この人、意思がないのかな?」という気持ちが芽生えてしまうのだ。

(2)反論を含め意見を口にしない

意見を求められる場にいる時や、何かを言われた時に反論が浮かんだとしても、思ったことを口にしなければ相手にとっては意見がない=意思がないと判断されてしまう。

どんなタイミングでも意見や反論を述べろというわけではなく、少しでも思うことがあれば、たとえ口下手だとしても相手に伝えたほうが結果として得する場面だって少なくない。

(3)基本、なんでも断らない

「これしてほしい」「今から来られる?」「ごめん、それキャンセルで」。

そういった言葉に「Yes」を多用するのは悪ではない。しかし、いついかなる時でも「Yes」と答えるのであれば、それは悪となる。

たまに驚くほど寛容であるがゆえに、返答に「Yes」のみを用いる人もいるが、これは少数派だ。

呟いた「Yes」に少しでも違和感を覚えるならば、それは自分の意思が「No」と叫んでいるのを無視しているに違いない。

(4)人の言葉を信じ込みやすい

別の表現をするならば、酷く騙されやすく、自分の意思よりも相手の言葉を信じて行動するのだ。

私たちは年齢を重ねるにつれ、良くも悪くも人の言うことを聞かない、聞いてもその通りに物事を実行しない経験(=意思を貫くこと)が増えていく。

他人の言葉を信じ込む人は、かつて誰もが持っていた素直さと柔軟性を変わることなく持ち合わせているのだろう。

ポジティブな見方をすると、人を信じ込むということ自体が立派な意思と言えるのかもしれない。

上で挙げた4つの例にあてはまると思う人は、あらためて自分を見つめ直す必要がある。

以下では、なぜ自分の意思がないように見えるのか、どう克服すればいいのかについて伝えていく。

見つめ直すという行為は大変ではあるが、「意思がある人」として自分を受け容れ、他人からも受け容れられるようになるために必要不可欠なステップなので、心して取り掛かってほしい。

自分の意思がないように見える4つの理由

前述したように、自分の意思がない人は存在しない。意思がないのではなく、意思の言語化が明確にできていないだけだ。

では、なぜそうなってしまうのか。自分なりの見解を書いてみる。

(1)感情を言語化するのが苦手

私もこれに長らく悩んできた。いや、厳密にいうならば現在進行形で悩んでいる。

私の場合はうまく言語化ができずに、まとまりのない言葉・表情・態度や行動(時にヒステリー……)として顕著に現れるが、それとは逆に、脳内で感情がごちゃごちゃになって黙り込んでしまう人もいる。

しかし、それは意思がないわけでも、考えていないわけでもなく、感情や思考をうまく言葉として形作れていないだけなのだ。

(2)「いい子」が正義として育てられた

私は「いい子」を否定する気はない。「いい子」は子ども時代から今もずっと頑張りに頑張っている人たちばかりだ。

しかし、世の中を強かに生きる上では弊害と化す場合が多い。

「いい子」は「自分が何をしたい・どうしたい」よりも、「社会(親)にどう思われるか・どう評価されるか」を優先する傾向にある。

社会性や法令遵守の観点からすると間違いではないが、人生の指標を他者ありきにするのではなく、自分の意思からそう思えるようになるのがベストだろう。

(3)交友関係が極端に狭いか広い

自分の意思がないと思われがちな人は、自覚している以上に価値観や思想について人と深い話をしていない。

極端に交友している人数が少ないか、はたまた多すぎるのか。どちらにも共通しているのは、関係性が希薄になりやすい。

まずはどんなくだらない話題でも、自分から話してみることが重要な鍵と断言する。

(4)固定概念が強い

人は自信がある物事については、自ずと外部へ発信していく。意思だってそのひとつ。そうしない理由は、自信がないから。

さらに言うと、自信がないゆえに固定概念という自分そのものを他者に否定される可能性を恐れている。

「これはこれ」「それは変えられない」「今の自分が良いなら良い」。

頑固なまでに自分の価値観・思考回路・習慣を変えず、否定されないために口には出さない。

その恐怖を乗り越えない限り、他人から意思がないと人から思われても仕方がないのかもしれない。

「自分の意思がない」を克服する3つの方法

ここまで読んで、「意思表示をできるようになりたい」と思えたのなら、それは変化への第一歩だ。素晴らしい。

まだ自分の中でモヤモヤするものがある人も、焦る必要はない。自分の意思を他人へ表わすのは簡単ではないのだ。無理に自分を変えようと焦ったところで、身体や心が悲鳴を上げるだろう。

その事態を避けるためにも、まずは今日から行える簡単な方法を3つ挙げてみた。

専門の知識に基づいた内容ではなく、主観での提案なので、試してみるとしても自己責任でお願いしたいと思う。

(1)自分の感情をとりあえず声に出す

昔、駅のホームに撒かれていた吐瀉物を見て、「まじ嫌だ! 無理!」と悲鳴を上げた友人がいた。

その時は「わざわざ声に出すようなことか……?」と冷めた視線を送ったが、これがシンプルかつ、わかりやすい意思表示だと最近気づいた。

このエピソードは汚い話だが、例えば何かをしてもらったり、贈られたりした時、「ありがとう!」と声を張って伝える。

芸術作品に触れて感動したら、「本当に素敵だった」「心が震えた」と同行者に言う。一人だったら、自分に聞こえる程度に呟く。

そうやって些細な感情でも声に出していくことの積み重ねは、心と感情のシンクロにも繋がり、より一層、意思が明確になっていくだろう。

(2)できる限り好き勝手に振舞う

アンモラルで、法を犯し、傍若無人の様を尽くせ。とは、言わない。モラルや法といった最低限のルールは守りながら、とにかく好きなことをしまくるといいだろう。

自己中、我儘、ビッチ、ナルシスト……どんな悪口も聞こえない。

面白いのが、普通の感覚を持ち合わせている人間であれば、段々とその好き勝手に生きることに飽きが生じてくる。

それは、思いつく限りのことをし尽くした後、自分が自分としてどう生きていきたいかが可視化されるからだ。

それ以降、自分の可視化された意思を主張しないと生きにくくなっているに違いない。

(3)YES/NOの基準を定める

自分の意思に嘘をつかない、あやふやにさせないのは、自分の心を守るのと同義。

いつものように「Yes」と返す前に一度考えてみる。自分は本当にそれをやりたいのか、そこに行きたいのか、その人に会いたいのか、を。

「Yes」と言うことは大切だけれど、「No」と言えることのほうが長い人生においては結果的として大きく得することもある。

人によく見られたい、なんて見えは時間と精神の無駄遣い。今すぐにでも止めるべき悪行と声高らかに言い張りたい。

自分の意思を持つと変わる3つのこと

自分の意思を伝えられるようになった結果、何が起こり、どう変化するか。

自分で実感するのが何よりだが、事前情報があったほうが実感も湧きやすいと思うので、先に3つだけ伝えておこう。

(1)否定されることを恐れなくなる

血が繋がっていようと、どれだけ長年の付き合いがあろうと、絶対に相容れないと感じる部分があるのは仕方のないことだ。

であれば、否定されるたびにクヨクヨとするのもおかしい話。その否定は相手の主観でしかなく、もしかすると世界中でその人だけが自分にそう指摘しているのかもしれない。

そう考えれば「この人とは意見が合わない」と前向きな諦めもつく。意思を持って自分は自分、他人は他人と割り切る行為は、自分の精神を保護する行為と言えよう。

(2)本当に親しくなりたい人とだけ交友が深まる

自分の意思を持ち、「No」を使いこなせるようになってくると何が起こるか。その代表例は、“とりあえず”な人間関係の減少。

人はそこまで深く考えて、人間関係を構築してはいない。大半の人たちが成り行きで付き合い、ダラダラとそれが続いてく。

途中で切れる縁もあるが、基本的に大きな波風は立たないのだ。だからこそ、八方美人なんて言葉も存在する。

親しくなりたい人、親しい人たちと過ごせる時間は意外すぎるほどに短い。

自分の意思というフィルターを通せば、本当に親しくなりたいと思った人とだけ交友することができるようになる。

(3)他人の目を気にせず人生を謳歌できる

意味がないと頭では理解をしていても、無意識のうちに他人と比較しその差に絶望する。
新しい試みにチャレンジしようとすると、周りからの視線や評価が気になる。そして、何も言えなくなり、動けず仕舞い。

私も十代前半からこれに悩まされてきたから、その気持ちに痛いほど共感するし、励ましの言葉を掛けたいとも思う。

だけど、それはしない。なぜなら、他人は自分なんかを気にしていないどころか、見てもいない。興味の対象ですらないからだ。

現実はそうであるにもかかわらず、他人の目を気にし続けるのは実に愚かでしかない。

きつい表現となってしまうが、真の意味で自分本位に生きるのだという意思を持てば、世界は途端に夜明けを迎えるだろう。

「自分の意思」を捨てずに生きていく

長々と書き綴ってきたが、私が主張したいことは一貫している。意思を感じさせない人は屍同然、ということだ。

意思を持ち、思考し、その意思を言語によって共有し、進化してきたからこそ、人間が創り出した文明は今日まで発展してきた。

私たちが類人猿のままであったら、今頃、その日を食べ繋ぐために狩りをし、子孫繫栄だけに注力していただろう。

きっと意思の有無で悩むことさえもなく、死んでいったとも想像がつく。

幸か不幸かそうではない私たちは、いついかなる時も意思を捨ててはいけない。意思を捨ててしまう瞬間こそ、人間として生きることを放棄する瞬間だと思うからだ。

(マドカ・ジャスミン)

※画像はイメージです

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