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【街の色、街の音】第5話:買物日和

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 スーパーじゃなく青果店に行こう、と思いながら玄関を出た。
美容師であるお姉ちゃんが、昨日遊びに来て、実家でもらってきたというお惣菜を差し入れしてくれたので、今日はそんなに新たに作るものはない。でも少しだけ野菜を買い足しておきたい。
前からお姉ちゃんとは仲がいいが、わたしが妊娠して、仕事を辞めてからは、今までのように休みが合わないということもなくなって、より頻繁に会っている。このあいだは、大宮八幡宮の安産祈願のお守りを買ってきてくれたので、よく使うトートバッグにつけた。

 

 子どもは来月生まれる予定だ。お腹はだいぶ大きくなっている。この中に自分以外の小さな人間がいるなんて不思議だ、と考えるたびに思う。お医者さんは性別もわかっているみたいだが、あえて聞いていない。なんとなく女の子なような気がしているが、夫は男の子なんじゃないかと言っている。

 

 かなり冷たい空気が頬を刺す。冬だ。去年は東京には珍しく、雪まで降った。あたたかいスープを作っておこうと決める。
普段、買い物は、駅前にあるスーパーで済ませることが多いのだが、時々は専門店にも行く。前はなんとなく、入るのに緊張していたが、勇気を出して入ってみると、おすすめの商品や食べ方などを優しい口調で教えてくれるので、以来ちょくちょく利用するようになった。結婚してからのことだ。

 池ノ上というこの場所は、わたしにとってずっと、彼が住んでいる街、だった。
デートはほとんど、彼の部屋だった。普段仕事が忙しいせいか、あまり出かけたがらず、休みはゆっくりしたいと言っていた。飲み会で知り合ったときには、もっと活動的な人だと思っていたのに、と納得いかない気がしつつも、陽当たりのよくて居心地のいい彼の部屋でゆっくり過ごすことに、少しずつ慣れた。

 たまに出かけるのは、たいてい下北沢だった。以前彼が住んでいた部屋からだと、歩いて十五分くらいで下北沢駅前に行けた。古着屋で買い物をしたり、カフェでお茶をしたり、彼が知っているお店でごはんを食べたりした。たくさんのお店が立ち並んでいる下北沢は、騒がしさと落ち着きが同居している街に感じられた。今はあまり行っていないが、思い出深い場所の一つだ。
そして井の頭線も、池ノ上と同じような感じで、彼が使っている路線、であり、彼に会うための乗り物、だった。

 

 強く印象に残っている出来事がある。妊娠がわかり、入籍や、池ノ上の別の部屋への引っ越しが決まって、バタバタしていた時期のことだ。
幸いにも、つわりはさほどひどくなかったのだが、気持ちは不安定に揺れつづけていた。本当に彼とうまくやっていけるのか、自分に子育てはできるのか。心配事はいくらでも生まれてきて、その都度不安になり、膨らんでいった。
本当にこれから大丈夫なのだろうか、やっていけるのだろうか、と思いながら、その日も用事のために一人で朝の電車に乗っていたのだが、車両内に並ぶ珍しいものに気づいた。

 

 ハートのつり革。

 

 二つ並んだそれに、わたしは引き寄せられるみたいに近づいて、触れた。
単純だし、何の根拠もないけど、なんとなくやっていけるのではないか、と思った。以来、落ち込むたびに、並んでいたハートのつり革を思い浮かべるようになった。もちろんそれだけで落ち着くというわけではないけど、ほんの少し、気持ちは軽くなる。

 

 青果店が近づいてきたところで、トートバッグの中で小さな振動が起きた。スマートフォンだ。取り出して確認すると、京香さんからメッセージが来ている。高校時代の部活の先輩である彼女とは、なぜか妙に気が合い、今でも時々会っている。

 

【元気? 実は結婚することになりました。式は夏にする予定だよ。子どもが生まれて忙しくなるかと思うけど、ぜひぜひ凛子ちゃんにも出席してもらえたなら嬉しいです】

 

 メッセージの終わりには、ハートの絵文字が添えられている。わたしはまたつり革を思い浮かべ、それから京香さんの幸せそうな笑顔を思い出した。もちろん出席したいという返事は、買い物を済ませて、帰ってから急いで送ろう。

この物語で登場した京王井の頭線沿線マップ

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著者/加藤千恵

北海道旭川市出身の歌人・小説家。立教大学文学部日本文学科卒業。2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人として脚光を浴びる。短歌・小説・詩・エッセイなど幅広く活動中。

次回最終話は1月中旬に公開予定。お楽しみに!

提供:京王電鉄株式会社

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