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ソロで生きるとは、水のように生きること

#ソロで生きる

荒川和久

結婚をしない人生ってどうなんだろう。揺れるアラサー世代。結婚願望もそこまでないし、結婚せずに生きていく未来も想像する。実際のところどうなの? 独身研究家の荒川和久さんに「ソロで生きる」ことについて、さまざまなデータなどを元に教えてもらいました。

社会構造が大きく変わろうとしています。

2040年、今から20年後の日本はどうなっていると思いますか? 少子高齢化が進み、高齢者だらけの国になっていると思いますか?

いいえ、違います。

日本は「水の社会」になります。独身者は水のように生きることが求められるでしょう。

今回は、この先の日本のコミュニティの有り様と、そこで独身者が生きるコツについて考えてみたいと思います。

超ソロ国家になる日本は「水の社会」になる

ソロで生きるとは、水のように生きること

20年後の2040年、日本の人口の5割は独身者となります。もちろんこれは未婚者だけではなく、離別や死別によって有配偶者から独身に戻った人たちも含みます。

65歳以上の高齢者人口は約3920万人に増加しますが、独身者人口はそれを超える約4630万人になります。高齢国家どころか、それ以上に独身者の多い「超ソロ国家」に日本はなるのです。※国立社会保障・人口問題研究所「日本の世帯数の将来推計・2018年推計」による。

それだけではありません。全世帯のうち、一人暮らし世帯が4割になります。その一方で、かつて標準世帯と呼ばれた「夫婦と子」世帯は2割にまで減少します。同じ屋根の下に、親子が「群」となって暮らす家族の姿は、もはや風前の灯となりつつあるのです。

そして、これは日本だけの話ではありません。先進諸国の世界的な傾向でもあります。当然ながら、そうした人口や世帯構造の変化によって、社会の構造が抜本的に変わります。

社会学者ジグムント・バウマンは、かつての安定した社会をソリッド社会と呼び、これから訪れるであろう「個人化する社会」をリキッド社会と表現しました。僕はそれを「岩の社会」から「水の社会」になると表現します。

「岩の社会」と「水の社会」とは

人々が集まり、岩のような固さと強さによって安心を得ていたのが「岩の社会」です。

「岩の社会」では、確かに不自由な面はありました。行動も一定の枠内という制限があります。しかし、その代わり、進むべき安全な道が提示されていて、岩の壁のように社会が守ってくれていました。不自由の代わりに安心があったのです。

しかし、その岩の壁が失われると、個人は不安定な世界に投げ出されてしまいます。大型船が沈没して、大海原に投げ出されてしまう状態と同じです。それが「水の社会」です。

「水の社会」は「岩の社会」とは正反対です。人々は自分の裁量で動き回れる自由を得た反面、常にその選択に対して自己責任を負うことになります。

それは、個人による競争社会を招き、それに伴う格差を生みやすくします。まさに、現代の姿そのものだと思いませんか?

平成年間に起きた非婚化や離婚の増加は、まさにそういう選択の自由を個人に与えた結果だといえるでしょう。

「岩の社会」を支えた3コミュニティの崩壊

このように、かつて人々に安心を与えた「岩の社会」ですが、それを支えていたのはコミュニティ(共同体)でした。地域(地縁)コミュニティ、職場(職縁)コミュニティ、家族(血縁)コミュニティ。この「3つの縁」のコミュニティがその代表例です。

しかし、そうしたコミュニティは崩壊しつつあります。

地域コミュニティ

すでに、都会では地域コミュニティは存在しなくなっていますね。集合住宅内において、両隣に誰が住んでいるか知らないなんて人も多いでしょう。

職場コミュニティ

職場も同じです。かつては、新入社員のために社員寮があり、結婚した若い夫婦のためには社宅が用意されていました。

そもそも、高度経済成長期の結婚を支えていたのは職場結婚でもあります。「腰掛けOL」や「寿退社」などという言葉があったように、当時大企業は、自社の男性社員のために高卒や短大卒の女性を採用していたといっても過言ではありません。

社員同士の絆を深めるという意味での、社員旅行や運動会なども行われていました。ある意味、職場は擬似的な家族だったといえます。

しかし、今では、単に働くだけの場と化しています。上司が部下を飲みに誘うことすら遠慮しないといけない状態です。

家族コミュニティ

そして、最後に残った家族というコミュニティも、未婚化によってそもそも作られなくなっています。作られたとしても、「3組に1組は離婚する」ともいわれるように、30%は壊れます。

このようにかつての強固な安心を形成していたコミュニティは全て崩壊・消滅しつつあります

「水の社会」におけるコミュニティの在り方とは

では、コミュニティというものが全て瓦解してしまうのでしょうか?

そうではありません。コミュニティが無くなるのではなく、「水の社会」の中で、コミュニティの在り様が変わるのです。

コミュニティとは所属するものではなく、接続するコミュニティへと位置付けが変わります。

「所属するコミュニティ」から「接続するコミュニティ」へ

「所属するコミュニティ」から「接続するコミュニティ」へ

かつての家族、地域、職場は「所属するコミュニティ」でした。しかし、これからは、枠の中に自分を置いて群れの一員になるのではなく、個人と個人とがさまざまな形で、必要に応じてゆるやかに接続する形になっていくと思います。

趣味のコミュニティなら、趣味の活動をする時だけそのメンバーと接続する。自己研鑽や学びなら、そういう場合だけ協力し合う。場面に応じて、柔軟に接続するコミュニティを組み替えていくイメージです。

その時、コミュニティとは、囲いではなく点となります。まるで、ニューロンネットワークにおけるシナプスのような役割を果たすのです。

居場所が重要なのではなく、あくまで人と接続するための接続点としての役割がコミュニティには求められます。

居場所が無くなると不安になるでしょうか? しかし、逆に考えると、今までの「所属するコミュニティ」の考え方では、「コミュニティの消滅=自分自身を見失うこと」にもなりかねません。

「接続するコミュニティ」では、安心は状態にあるのではなく、個人が自分の行動の中に見いだすものとなります。

「弱い紐帯の強さ」とは

米国の社会学者マーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強さ」を提唱しています。

有益で新規性の高い情報や刺激は、いつも一緒の強い絆の間柄より、いつものメンバーとは違う弱いつながりの人たちの方だという考え方です。

これからは、今までのどの時代よりも、個人が「弱い紐帯」をたくさん持つ必要が出てきます。その中で、常に複数のコミュニティに接続しながら、新しい刺激を得て、自分を拡張していくという考え方です。

自分を拡張する=自分を変えるということではありません。人とのつながりによって、自然と自分の中に新しい自分が生まれるということです。

古い自分を上書きするのではなく、古い自分も含めて、新しい自分を生み出し、足していくということ。つまり自己の拡張化であり、多層化であり、それが自分の中の多様性となります。

所属しない状態を恐れないことが大事

「どこにも所属していない」「みんなと一緒にいない」という状態を極度に不安がる必要はありません。いつも一緒にいなくても、いざとなったら誰かと接続できる。そう思えて安心できることこそが精神的な自立です。

逆にいえば、たとえ集団の中に所属していても、誰とも接続できていないと感じるなら、それこそ孤立している証拠です。

「所属さえしていれば」「みんなと一緒にいれば」という「状態に支配されてしまう思考」こそが、心理的孤立への助走なのです。

ソロで生きるとは、水のように生きること

ソロで生きるとは、外の世界と自分を遮断することではありません。必ずしも居場所が必須というわけではないのです。必要に応じて、人とつながり、違う考え方とつながり、自分の中に生まれてくる「多様な自分」を育むことなのです。

城壁に覆われた今までの安心な「岩の社会」における「所属するコミュニティ」とは、見方を変えれば牢獄だったのかもしれません。

「上善水如(じょうぜん、みずのごとし)」という言葉、聞いたことがありませんか? 日本酒の銘柄名ではありません。中国の老子の言葉です。意訳すると、「良き人生とは、水のように生きるということ」です。

水は自分の存在を頑なに主張しません。器に応じて自由に形を変えます。低い方へ逆らわず自然に流れていきます。

水のように、柔軟に生きる。それが心穏やかに過ごす最良の生き方だと、すでに2500年前に老子は見抜いていたのでしょう。

ソロで生きるとは、水のように生きるということです。

(文:荒川和久、イラスト:coccory)

※この記事は2020年09月30日に公開されたものです

荒川和久 (独身研究家・コラムニスト)

独身研究家/コラムニスト。ソロ社会論および非婚化する独身生活者研究の第一人者として、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・Webメディアなどに多数出演。

韓国、台湾なども翻訳本が出版されるなど、海外からも注目を集めている。

著書に『結婚しない男たち』(ディスカヴァー携書)、『超ソロ社会』(PHP新書)、『ソロエコノミーの襲来』(ワニブックスPLUS新書)、『結婚滅亡』(あさ出版)など。

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