離婚歴が再婚に不利にならない? 現代とくらべて羨ましい「昔の婚活事情」
就職先をさがす活動「就活」になぞらえ、結婚相手を探す活動を「婚活」と呼ぶことも定着してきた気がします。昔の日本では、女性の結婚は「就職」そのものでした。とくに最初の結婚式は、成人式と就職祝いがいっぺんに来たような感じで祝われたのですね。
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ただし、男女の愛ははかないもので、平安時代などは3~4カ月、夫が通ってこないと自分はシングルにもどったと、認めざるをえませんでした。平安時代は、文書などで離婚をハッキリ切り出す場合ってあんまりないのです。
しかし、その後……たとえば戦国時代といった武士の世になってくると、結婚が「女性の仕事」である以上、一身上の都合で「転職」する女性もどんどん出てきました。つまり、キャリアとしての離婚・結婚が繰り返されるようになった、と。この手の離婚・再婚がとくに激しかったのは、戦国時代、それも武将の家に生まれた女性の場合でしょうか。男女関係もいわば「乱世に突入」したわけです。当時の武家の女性はまるで現代のキャリアウーマンが実績を出す度に、一身上の都合で転職するように、色んな男性のもとに嫁ぎます。子どもはその場合、元・亭主の家に置いてゆくのが原則ですが、離婚歴が再婚に不利になるわけでもなかったんですね。こういう点は現代以上に昔の日本は進んでいました。
実家当主である父親の意見が絶対のようなイメージがあるのが戦国時代ですが、女性が常に従ったわけでもないようです。たとえば、あの織田信長の妹(姉説もある)、お市の方は何回か結婚していますが、自分の意思を貫き、結婚したくないと主張した時期もありました。したくない場合、彼女の信念が感じられれば、どんな独裁者であっても女性に無理強いさせることは出来ませんでした(とはいえ、本当に誰とも結婚したくない女性は尼になるしかありませんでしたが)。結局、お市の方は二回目に嫁いだ浅井長政が、(後の)豊臣秀吉と対決し、負けてしまったとき、夫と共に死ぬことを選びます。
豊臣秀吉と、おねの夫婦にも結婚をめぐる面白いエピソードがあります。おねといえば、秀吉の正妻として、子どもがいなくても揺るぎない地位を誇った……とされていますが、実は正妻の座から降格、悪くて離婚、よくても側室にされそうになった夫婦危機が一度だけあったようなんですね。秀吉には実は、正妻・おね以外の氏名不詳の女性との間に男女の子を授かったことがありました。それこそ、秀吉がお市の方と浅井長政を攻め滅ぼした直後のことです。南殿(みなみどの)と呼ばれる、詳細は不明の女性との間に男女一人ずつ、複数の子どもを秀吉は授かっており、特に跡継ぎとなる石松丸という男の子の誕生と成長を祝っていた事実を示す記録が、琵琶湖にうかぶ竹生島(ちくぶじま)の寺に残っているんです(『竹生島奉加帳』)。この時、秀吉は南殿を正妻にしようと思っていたようで、夫の胸の内を察知したおねは、秀吉が当時仕えていた織田信長に手紙を書きました。そして信長を味方につけ、秀吉に注意をしてもらうことで、なんとか正妻の座を守り抜いた……というようなことがありました。女のドラマですよねー。
しかし、そうした思惑を超越したかのように、スイスイと結婚、離婚、再婚を繰り返した女がいます。徳川家康の母・於大の方です。家康の父・松平広忠との間に後に家康となる竹千代を授かった後、実家の事情で広忠とは離婚します。その後、於大の方はまたもや実家の都合で、久松俊勝という武将と実にスムーズに再婚してしまうのです。
この時すでに久松俊勝には正妻がいましたが、於大の方が嫁いでくることで「正妻チェンジ」が行われてしまい、スルッと久松家に入り込んだ於大の方は、久松俊勝との間に三男三女をもうけてるんですねー。どこに嫁いでも妻として成果を上げ続ける於大の方、戦国のキャリアウーマンの鑑ともいえるでしょう。鋼鉄のハートの持ち主でもありますが。
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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
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※写真と本文は関係ありません
※この記事は2014年12月14日に公開されたものです