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勝海舟は船乗りに向いてなかったって本当?

幕末から明治という新しい時代への橋渡しをした人物のなかでも、だれもが知っている勝海舟。言うまでもなく、坂本竜馬の師匠であり、江戸無血開城に成功した人物である。

【遠山の金さんは「庶民の味方」どころか、庶民の娯楽を禁止した「敵」だった】

海防に関する意見書を幕府に提出したことから、世に出るきっかけをつかんだのだが、じつは船が大の苦手。咸臨丸での渡米は有名だが、実際は船酔いでのたうち回っていただけ。ついには海の真ん中で、「船を下りる!」と騒ぎ出すなど、周囲を困らせるトラブルメーカーだったのだ。

それでも船が勝海舟の人生を変えた

勝は何の役にもついていない超貧乏旗本に生まれる。幼少期は運よく江戸城に上がることができ、第12代将軍・徳川家慶の5男である徳川 慶昌(よしまさ)の遊び相手をしていた。うまくいけば家臣として出世できたのだろうが、残念なことに慶昌は14歳で亡くなってしまう。

出生街道が閉ざされ、家に戻った勝は家督を相続し、再び貧乏生活へと突入することとなった。

しかし、若き日の彼は剣術と蘭学(らんがく)に励み、28歳には蘭書と西洋兵学を教える2つの私塾を開くようにまでなった。その後ペリー来航を機に、幕府は広く海防に関する意見書を募集することとなる。そこで勝の意見書が目にとまったのである。

やがて長崎海軍伝習所へ入門し、ついには遣米使節として咸臨丸に乗り、サンフランシスコに向かう。同乗していたおもな人物は、

・総督 … 木村摂津守(せっつのかみ)

・木村の従者 … 福沢諭吉

・通訳 … ジョン・万次郎

・アメリカからの応援 … ブルック大尉たち

だった。勝はキャプテンと呼ばれ「船長」扱いだったにも関わらず、ブルック大尉の日誌によると、往路では激しい船酔い(本人は過労と主張している)により自室から出ることもままならぬ状態だった。さらに、勝を含めた日本人クルーの操船技術はまったく未熟で、アメリカ人乗組員がいなければ渡米は難しかったと考えられている。

勝は次第に立場を失い、ふてくされながら日々を過ごし、スタッフから指示を求められても「まかせる」しか言わない。こともあろうか、自分の給料の安さに不満を持っていたのだ。温厚で年若い木村摂津守の2,000石に対し、貧乏出身の勝は200俵扶持(ぶち)。

この差にふてくされ、自室ですねていたという説もある。

最終的にはブチ切れて、「ボートを下ろせ!オレはワシントンに向かう!」と、責任放棄モードに突入…あまりの無責任さにブルック大尉も言葉を失ったという。初めての長期航海ということを差し引いても、ドン引きの内容だった。

そもそも勝海舟は船長失格だった?!

勝は船酔い体質に加え、伝習所時代から、航海に必要な数学が苦手で、決して優秀な船乗りではなかった。それよりも政治的なかけひき、なかでも自分と相手の優劣を見極める力に長けた人物だった。相手が上なら懐柔を試み、下であれば主導権を握る…世の中を渡っていくには必要なことなのかもしれないが、過ぎると単に嫌なやつである。

サンフランシスコ行きも、幕府はアメリカの助力を拒否し日本人だけでの達成を願っていたが、ブルック大尉に会った勝が幕府を説得。これがなければ咸臨丸は沈没していただろう。もしかすると、自分の航海技術が未熟なのを知りながらも「船長」の立場でふんぞりかえっていられると目論んだのかもしれない。

同船していた福沢諭吉もあきれたようで、のちに「見識のあるひとならダマされず、勝をバカにするだろう」と、残念なコメントでこき下ろしている。

まとめ

・勝海舟は、船が苦手だった

・咸臨丸では、激しい船酔いでなにもできなかった

・航海中にブチ切れて、「船を下りる!」と騒ぎ出した…

政治家としての手腕がありながらも、その地位への大きなステップだった咸臨丸での渡米は残念な内容だった。しかしやはり知識はあり、帰国したのちに勝は軍艦奉行の職につき海軍塾を開くこととなる。陸の上なら能力を発揮できる人物だったに違いない。

ちなみに咸臨丸での復路は、日本人だけで帰ってくることができた。もちろん心配されていたため、数名のアメリカ人スタッフが乗船していたのだが、自力で帰国できるまでに腕をあげたのは、勝ではなくブルック大尉の功績といえるだろう。

(沼田 有希/ガリレオワークス)

※この記事は2014年08月10日に公開されたものです

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