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忠臣蔵は浪士たちの就職活動だったって本当?「本当」

映画「47RONIN」のモチーフにもなっている『忠臣蔵』。主君・浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇討(あだうち)のため、吉良家を襲撃した47人の赤穂浪士たちは、忠義を重んじる武士のかがみとして描かれているが、史実とはちょっと違う。

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浅野家が取り潰され、行き場をなくしてしまった武士たちは、いま風にいえば、会社が倒産し、途方に暮れている従業員たちに等しい。そこで、注目を浴びれば再就職も楽になるだろうと考え、「就職活動」の一環として派手な討ち入りをおこなったのだ。

近所の噂になっていた討入り

そもそもは、浅野内匠頭が城中で吉良上野介(こうずけのすけ)に抜刀したことが始まりである。殿中での抜刀がご法度であることは誰もが知っている常識で、もちろん浅野も知らなかったわけはない。では、なぜ抜刀したのかというと、じつは誰もわからない。

取り調べを受けた吉良も身に覚えがないという。討入の際に、浪士たちが吉良邸の門に突き立てた『浅野内匠頭家来口上(けらいこうじょう)書』も、「何かとても我慢できないようなことがあったのでしょう」と書かれているだけなのだ。

つまり、かたき討ちする浪士たちも浅野がなぜ斬りつけたのか、わかっていなかったのである。

元禄15年12月14日、討入り決行の日である。

ドラマでは、どこからともなく赤穂浪士が集結するのだが、じつはこの日に吉良邸へ討入りがあることは、近所中が知っていた。浅野が切腹してから、1年半以上に渡り偵察や聞き込みをしていればバレるのも当たり前で、なんと当日は、吉良邸の隣の家に見物人まで集まったという。

皮肉なことに、注目を浴びるという目標は、思いがけない形で達成したのである。

討入り=再就職活動のワケ

首謀者とされる家老の大石内蔵助(くらのすけ)も、初めは討入りなど現実的ではないと考えていたのではないだろうか。なぜなら、内匠頭の弟である大学(だいがく)が、浅野家を再興できる可能性があったからである。ここで討入りなんてしたら、みずから可能性を潰すようなものだ。

ところがお家再興はうまくいかなかった。そこで大石も一発逆転の再就職を狙って討入りを決意したのだ。

デキる男・大石が討入りに再就職の光を見たのには、もちろん理由がある。これより30年前に「浄瑠璃坂(じょうるりざか)の仇討」という事件があった。こちらは浪人たちが屋敷に押し入った後に自首し、島流しになったのだが、数年で赦免されて再就職した者もいた。

当時、この話は歌舞伎などのネタにもなっていたため、当然のことながら赤穂浪士たちが知らないはずがない。これにヒントを得て、討入りに仇討を匂わせることで、再就職の可能性を見いだしたのだろうが、残念ながら当てが外れて切腹を申しつけられてしまった。

自首した赤穂浪士の中には、切腹の仕方がわからないものもいた。つまり、切腹を言い渡されるなんて、想像すらしていなかった者もいたということである。

この事件後、浅野大学は、旗本の直属の家臣として500石を得て一応お家再興。内蔵助の切腹後、大石の三男は広島の浅野本家で1,500石を得た。もくろみは違ったかもしれないが、残された者たちが路頭に迷わなかっただけでも、計画は成功したと言えるのではないか。

まとめ

・忠臣蔵は、浪士たちの「就職活動」

・なぜ斬りつけたのか、理由は不明

・切腹させられるとは、思いもよらなかった

「武士は食わねど高楊枝」とう言葉にあるように、平和な江戸時代において、武士の生活は大変切りつめられたものだった。さらに一度浪人になってからの仕官は難しく、残念なことに(?)領地をうまく仕切っていくために、主君から求められた能力は、武芸よりも算盤だったのだ。

そんな時代の赤穂義士の討ち入りは、武士の心を思い起こさせるできごととして、忠義という型にあてはめられ、人々の感動を呼ぶ物語として作り直されてきたのかもしれない。

(沼田 有希/ガリレオワークス)

※この記事は2014年05月09日に公開されたものです

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