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毛利元就の「三本の矢」は、作り話だって本当?

戦国大名、毛利元就(もうりもとなり)。教科書などではあまり触れられることはないが、ドラマや小説などに取り上げられることが多く、歴史にあまり興味がなくとも、名前を聞いたことはあるだろう。

この元就の有名な逸話と言えば「三本の矢」である。一本では折れてしまう竹の矢も、三本合わせれば折れない、という話はご存じだろう。しかしこの美談はどうやら作り話。晩年に三人の息子を集めて、竹の矢で実演した風に伝えられているが、長男・隆元はこの頃すでに他界しているので参加不可能。

この内容は約三メートルもの手紙で個々に送られたものだったのだ。

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元就は説教がお好き

「三本の矢」は、元就が死の間際、三人の息子を呼び遺言として聞かせたとされている。しかし、史実と照らし合わせると、その場面はありえない。元就が死去したのは1571年。それより八年も前に長男は亡くなっているからである。

ではどこから「三本の矢」の話が出て来たのかというと、元就が家督を長男に譲った際、兄弟の結束を呼びかける手紙に書かれていた内容だった。これは「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」と呼ばれ、「本家・毛利のために尽力しなさい」というものだった。

跡継ぎの長男・隆元(たかもと)はきちんと読み込んだ上で承諾したが、次男・元春(もとはる)、三男・隆景(たかかげ)はこの内容に消極的であった。

なぜなら二人は、すでに養子として他家に入っていたため「実家のために頑張りなさい」と言われても、心情的にも立場的にも快諾できるはずがないのだ。

結果的に、次男・三男は父から送られてきた超長い手紙=説教くさい教訓状に「わかりました」と返事をするが、長男のようにきちんと読み込んだ形跡はなく、ただ形式的にサインしただけだった。三男・隆景に至っては、教訓状にあるように、何かあると毛利の屋敷を訪ねて来たのは良いのだが、そこにかかった費用として屋敷などの見返りを要求する始末。

さすが知略策謀の将と呼ばれる元就の息子である。西のことはコイツに任せとけば大丈夫と豊臣秀吉に高く評価されていた小早川隆景は、タダでは動かないのだ。

実際は毛利家思いだった次男と三男

この「三子教訓状」をどう捉えていたのかは謎だが、長男・隆元の死後、次男・三男は毛利家跡取りの輝元(てるもと)をしっかりと支え、毛利家の黄金期は元就の死後も続いていた。ただ、輝元はいわゆるおぼっちゃまで、天下をおさめるに値するような器の人物ではなかった。

そこが懸念されていたのは間違いない。

毛利家の行く末を憂慮した三男・隆景は、自身の遺言の第一条に「天下が乱れても領国の外に欲を出してはならない。領国を堅く守ってこれを失わないことに力を注ぐべき」と、輝元の行動を戒める内容を残している。本当のところ、父に諭されなくとも実家を思いやる気持ちを強く持っていたのだろう。

残念なことに、三男・隆景亡き後、小早川家を継いだ秀秋(ひであき)は関ヶ原の戦いで、豊臣から徳川に寝返り、豊臣の西軍の大将となった輝元を裏切る形になった。領国の外に出すなという遺言を守ることができなかった輝元にも問題はあるだろうが、戦いの最中に君主を裏切る秀秋も武人としてはあまりに残念すぎる。

戦に敗れた毛利家は、120万石からたったの36万石に減らされたため、大々的なリストラがおこなわれた。領民への税の締め上げもきつくなり、その結果、山代一揆(やましろいっき)が起こるなど、完全な悪循環に陥っていった。

悲しいくらいに落ちぶれていく毛利家だが、その後は独自のシステムを作り上げ、見事に持ち直しただけでなく、明治維新を主導する人物を多く輩出する「長州藩」へと成長していくのだ。

まとめ

・「三本の矢」の話は、歴史的には実演不可能

・実際は3mもの長い手紙で伝えられた

イソップ物語の三本の棒や中国の故事など、「三本の矢」に似たような話は世界中にある。ある意味、当たり前ともいえる内容だからこそ、次男・三男はちゃんと読まなかったのだろう。

三子教訓状の第一条、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ、なんて、わざわざ言われなくても…と思っていたに違いない。

(沼田 有希/ガリレオワークス)

※この記事は2014年11月02日に公開されたものです

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