ライト兄弟の人生は、裁判だらけだったって本当?「本当:不毛な裁判に追われ、十分な研究時間がとれなかった」

帰省や海外旅行に多くのひとが利用する飛行機。空を飛ぶ画期的な方法だが、今では電車と同じぐらい身近な存在といえよう。
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飛行機の開発者として知られるライト兄弟は、優雅な暮らしとはほど遠く、裁判を繰り返す不毛な生活を送っていた。人類初の業績と認められたのは飛行実験から40年もあとのことで、訴訟に次ぐ訴訟に追われ、研究者として活躍できないまま一生を終えたのだ。
鳥でもできる特許技術?
世界初の飛行機を作ったのはドイツのオットー・リリエンタールで、残念ながらライト兄弟ではない。ただしリリエンタールが作ったのはエンジンもプロペラもないグライダーで、実用的な代物とは呼べない。対してライト兄弟が有名になった理由は「有人動力飛行」、つまりはひとを乗せられるエンジン付きの飛行機を完成させたからで、1903年12月17日に12秒間・36mの初飛行に成功した。
前に水平翼、後ろにプロペラがあり、いまの飛行機とは前後逆の構造で、安全に「墜落」できるように設計されていた。
彼らの作ったフライヤー号の最大の特徴的が「たわみ翼」で、翼をねじることで旋回したり、バランスを保つ仕組みになっている。現在では「エルロン」と呼ばれる補助翼が上下して曲がる方向に傾くのが当たり前だが、当時はこの発想がなく1906年にアメリカで特許登録された。
本来ならば「偉業」となるべきだろうが、この特許があだとなり、ライト兄弟は裁判ざんまいの人生を歩むこととなる。
当時の飛行機は、あらたな交通手段はもちろんのこと、兵器としても注目を集めていた。そのため、
・最初の発明者
・飛行機に必要な特許
が重要で、ライト兄弟は特許をたてに、後発の飛行機に特許侵害の裁判を起こしていたのだ。
なかでもグレン・カーチスとの訴訟は泥沼化の様相をていし、たわみ翼に「似ている」「似ていない」で、不毛な裁判が続けられていた。カーチスが発明したのはまさに現代の「エルロン」で、技術的には優れていたのだが、ライト兄弟はこれを「たわみ翼」の一部と主張。
最終的にはライト兄弟の勝訴で幕引きとなるのだが、(機体を傾けるのは)鳥でもできる=そもそも特許の価値はないなど話が発展し、1910年まで子供のけんかのような裁判が続けられていたのだ。
ねつ造された「世界初」
さらにやっかいなのはアメリカのサミュエル・ラングレーだ。ライト兄弟の師匠にあたり、兄弟よりも2ヶ月ほど前に飛行実験をおこなったが、あえなく失敗。面目まるつぶれになったうえに、おいしいところを兄弟に奪われるかたちとなった。
逆ギレ以外のなにものでもないのだが、確執は40年近く続く。
ラングレーはのちにスミソニアン協会の会長を務めるが、ねたみからかライト兄弟の偉業を認めず、フライヤー号の展示を断固拒否。こともあろうか、飛べなかった自分の飛行機を再現し、「世界初」にでっちあげたのである。
ライト兄弟はこれに抗議するも、ラングレーは取り合わず、またもや不毛な時間を費やすはめになったのだ。
訴訟やもめごとに追われた兄弟は、あらたな技術が生み出せず、彼らの飛行機は「過去の遺物」と化していった。心労に加え腸チフスがたたり、兄・ウィルバーは1912年に他界。やがて1942年にスミソニアン協会が謝罪し、1948年にフライヤー号が展示されることになったが、ときすでに遅く、弟・オーヴィルもすでにこの世のひとではなかった。
まとめ
・ライト兄弟は、世界初の有人動力飛行に成功した
・最初のフライトは、12秒間・36m
・不毛な裁判に追われ、十分な研究時間がとれなかった
・スミソニアン協会が世界初の飛行機と認めるまで、40年近くかかった
晩年にオーヴィルは、飛行機を発明したことを悔やんだとされているが、特許を取得すれば訴訟は避けられない。
軽量な機体や安全設計など、現代にも通じる先見性には脱帽する。商売っ気を出さず、技術者に徹していれば、幸せな人生が送れたのかもしれない。
(関口 寿/ガリレオワークス)
※この記事は2014年08月14日に公開されたものです