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遠山の金さんは「庶民の味方」どころか、庶民の娯楽を禁止した「敵」だった

時代劇でおなじみの「遠山の金さん」。しらをきり通す悪人の前で、「見覚えがないとは言わせない」と、入れ墨を見せつけるシーンがお約束だが、桜吹雪どころか入れ墨をしていた証拠は何ひとつない。

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庶民の味方として描かれているものの、娯楽である人情本(にんじょうぼん)を禁止するなど、真逆の存在だったのだ。

腕に生首の入れ墨をしていた?

「遠山の金さん」が庶民派として描かれているのは、モデルとなった遠山景元(かげもと)の複雑な生い立ちにある。父が遠山家に養子入りすると、義祖母にあたる養父に子・景善(かげよし)が生まれ、つまりは父の弟が誕生した。

本来なら景善が跡取りになって当たり前だが、それでは養子入りした父・景晋(かげくに)の立場がない。そこで景善は景晋の養子にし、複雑な関係となった。

景善は弟になるはずなのに、本家の子のため「兄」として届けられ、景元はいきなり次男となってしまう。当時は長男「以外」は家督を継げず、次男以降は予備でしかなかったのだから、景元の人生は180度変わる。そのため、青年になると家を出て町家で過ごし、このとき父の通り名・金四郎を名乗っていたのが、ドラマの「金さん」のモチーフになっている。

やがて景善が他界し、父・景晋も隠居。これを機に左衛門尉(さえもんのじょう)景元と名を改め、各奉行を務めたのちに、北町奉行にまで出世した。同じく名奉行として知られる大岡越前はおよそ2千石の旗本なのに対し、遠山はわずか500石と小規模で、能力だけでなく家柄も重んじられていた当時、大出世といえよう。

これらが親しみを感じさせ、町民にふんして悪事をあばく「金さん」が生まれたのだろう。

肝心の入れ墨には、

・腕に生首

・腕に短冊(たんざく)+背中に桜

の説があり、「桜吹雪」も根拠がないわけではない。ただしこれらは歌舞伎や講談などの「娯楽」に出てくる描写に過ぎず、公的な書物には記録が一切ない。デザインどころか入れ墨をしていた事実も、定かではないのだ。

現代ではファッションとして定着しているものの、当時は無頼(ぶらい)と呼ばれる荒くれ者や罪人のあかしだったので、武士が入れ墨をする可能性はきわめて低い。たとえあっても、ひと前で見せるなどは絶対に「あり得ない」行為なのだ。

DJ奉行・誕生!

遠山の金さんは「庶民の味方」どころか、庶民の娯楽を禁止した「敵」だった。

当時の老中・水野忠邦(ただくに)がおこなった天保(かいかく)の改革ではぜいたくを禁止し、乱れた風紀をただす動きが強かった。なかでも商人への風当たりが強く、婚礼やご祝儀がどんどん豪華になっていくのは、商人のせいだとされていたのである。

そこで遠山景元は町中の商人を奉行所に集め、「今後もぜいたくを続けるなら処罰する」と、とくとくと説教をおこなった。

いま風に言えばDJ奉行といったところだろうか、これを聞いて感動したひとも多かったというが、貼り紙でも済ませられる告知をハデなパフォーマンスに変えたのも、上司へのアピールだったと考えられる。

同時に、現代なら恋愛小説にあたる人情本(にんじょうぼん)の禁止にも精力的に取り組んだ。なかにはポルノに該当するものもあったので一概に悪法とも呼べないものの、本はもちろんのこと版木まで取り上げ、罰金まで科したというから、作家や本屋は大打撃をうけ、とてもじゃないが人情派とは呼べない。

歌舞伎や芝居も禁止されそうになったが、遠山景元が食い止めたと言われているものの、これも怪しい。水野に意見を求められたのはたしかだが、そもそも「禁止しよう」とは、だれも言っていなかったという説もあるのだ。

まとめ

・遠山の金さんの入れ墨は、「生首」「短冊」など諸説ある

・本当にあったかどうかは、記録が残されていない

・庶民派どころか、上司へのアピールが強いひとだった

画家や書家との交流も厚く、みずから詩歌もよんだ遠山景元は、芸術/芸能をよく理解できる人物のはずだが、それよりも上司の顔色が優先だったなら、ちょっとがっかりだ。

(関口 寿/ガリレオワークス)

※この記事は2014年08月04日に公開されたものです

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