うるさい“痛客”に「とりあえず謝る」を止めてみたらどうなる? 「常識のない喫茶店」書評
仕事、結婚、からだのこと、趣味、お金……アラサーの女性には悩みがつきもの。人生の岐路に立つ今、全部をひとりじゃ決め切れない。誰かアドバイスをちょうだい! そんな時にそっと寄り添ってくれる「人生の参考書」を紹介。今回は、『常識のない喫茶店(僕のマリ著・柏書房)』を、ライターのミクニシオリさんが書評します。
私たちは無意識のうちに、日常の中で他人に対して、自分の常識を押しつけてしまうことがある。恋人に対して「なぜ私の気持ちを考えてくれないのか」と怒る時、自分は相手の気持ちを考えることを辞めている。初対面の人に会った時「この人、苦手だな」と距離を置く時にも、無意識に自分の常識と相手の常識の一致度を比べている。
しかし、それって悪いことだろうか。コンプラ意識が高まっている現代で、他人が、相手がどう思うかを優先して行動・発言していれば、自分らしさなどたちまち見失ってしまうだろう。
しかし、他人の目を気にせず行動できる人は、どこのコミュニティにもいるものだ。そういう人が少数派だと、コミュニティの中で変人として陰口を叩かれたりもするものだが……もしも自分の所属するコミュニティが「相手より自分を大切にする人が多数派」だったら、どんなに生きやすくなるだろうか。
【この本を読んで分かること】
・なぜ私たちは我慢しながら働いてしまうのか
・「お客様は神様」なのか? ストレスを溜めずに働く方法
・くだらない常識に立ち向かう勇気
「お客様は神様論」に、やんわり感じる違和感
『常識のない喫茶店(僕のマリ著・柏書房)』は、ネットで見つけた本だ。帯に書かれた「こんな働き方、誰も教えてくれなかった」という一言が気になった。本書は著者の女性のエッセイ本で、最初は『文学フリマ』という同人誌の即売会で個人的に出版していたものらしい。
著者である僕のマリさんは、文筆しながらとある喫茶店で働く若い女性だ。喫茶店と言っても、シニアのオーナーが営む、地元の常連に愛される個人店のようだ。
基本的に、著者=若い女性スタッフ視点での喫茶店で起こるあれこれが綴られているのだが、これがクスリと面白く、また「お客様(またはクライアント)こそ神様だ」という、日本の常識についても改めて考えさせられるのだ。
私たち若者の間では、飲食店などで店員に対してあたかも自分が神様かのように振る舞う人は「危険人物」として扱われることも多い……ようにも感じる。人の目に触れるところで傍若無人な振る舞いをしている人がいると、白い目で見るような空気感ができあがることもある。
しかしそういう時にビシッと声をかけられる人はあまりおらず、結局店なら店員、駅なら駅員がやんわりと注意することになり、その枕詞には「大変申し訳ないのですが……」と添えられる。
そういう事件が起こる時、たいていは店員・駅員サイドは全く悪くない。それでも「申し訳ない」と言い、申し訳なさそうな表情を浮かべないといけないのは、そうでもしないと騒いでいる客側の溜飲が下がらないからである。
本書に登場する喫茶店では、こういった「なぜかまかり通りがちな客側のわがまま」と、真っ向から戦うことが許されている。「店側もお客様を選んでいい」というオーナーの意向もあり、著者も店員でありながら、喫茶店を訪れるモンスター客と戦っていく。
「とりあえず謝る」で、苦しむのは現場の人間
喫茶店の中で、嫌いな客には「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を言わないという著者。最初は、本を読みながら不安を感じてしまった。こんな態度を取っては、お客様が怒るのではないか、と想像ができるからだ。
そして、案の定本の中には「急に怒り出す客」の話が何度も語られる。大して来店しないくせに「いつもの」と言えばオーダーが通ると思っている人、店内にゴミを置いていく人……。
一見、真っ向に立ち向かえば、店側が損をするようにも思える。そんなことをする人は、店員に注意されれば、目くじらを立てて逆ギレする光景が目に浮かぶからだ。
しかし、本書ではそんな「神様との戦い」が非常にユーモラスに語られていく。怒り出す“痛客”は、店員の中で不名誉なあだ名をつけられており、店中でうわさ話が回ったり、塩接客がなされたりする。
特に著者は、自分の常識を店舗にやんわりと押し付けてくる客に対して、かなり辛口な接客をする。失礼な客には大声で「もう二度と来ないでください」と叫んだりして、客を出禁にしてしまったりする。
最初は、その接客に対して「ほら言わんこっちゃない! やっぱり客が怒ったじゃん」と思いながら読んでいた。しかし、これは自分が部外者だからこそ思うことなのだということにも気づかされていく。
駅のホームで騒いでいる人を見た時、駅員さんが来ると安心する。どうにかしてくれるはずだと、責任をなすりつけることができるから……それと一緒なのだ。
著者はただ、自分がおかしいと思うことに折れずに立ち向かっていく。何度も食事を残されれば、食事を作ったスタッフは悲しい。自分の感情に正直に、お客と戦う姿を見ていると、だんだんと「そうだもっとやれ」という気持ちになってくる。
本書は特に、著者と同じく接客業に従事する人からの評判が高いという。日本がいかに、接客業に従事する人や、お客と対峙する現場のスタッフたちに我慢を強いているのかが分かる。
私自身は接客業に関わったのは学生時代のバイトが最後だ。しかし、まだほとんど子どもで、わがままだった自分すらも、お客様は神様論に抗うことができなかったのは、店側がその空気を鵜呑みにして甘んじていたからだ。
接客する店員1人が我慢すれば、大問題は避けられる。「だからとりあえず謝っとけ」的な空気は、接客業に限らず日本中のビジネスの現場にも漂っているように感じる。こうして、現場の人間が一番疲弊する職場が出来上がってしまうのだろう。
ビジネスの現場で、いち人間の尊厳を守るために
「常識のない喫茶店」では、著者が客に毅然と振る舞っても、仲間であるスタッフも、オーナーも文句を言ったりしない。喫茶店で働く面々は個性的な人物ばかりだが、オーナーの審美眼によって「心根のやさしい人」が厳選されているらしい。
僕のマリさんの接客は辛辣だが、わがままな店員というわけでもない。ただ、お客と店員である自分を対等に考えた時に、失礼に値する態度を取る客に対して、きっちりと制裁(変なあだ名をつけたり、時に出禁にしたり)を加えていくのだ。
もし一般的なビジネスの現場でも、彼女と同じように対等な人間関係を構築できたなら、どんなにいいだろう。店員と客、事業会社と下請け、正社員と業務委託。どの関係も本来、必要なカネとサービスを等価交換できていれば、対等な間柄のはずなのだ。
それなのに、客が神様、仕事を振るヤツが神様の日本では、その事実を忘れそうになってしまう。しかし僕のマリさんの振る舞いを見ていると、その事実を受け入れてはいけないと思い出すことができる。不均衡な関係を受け入れれば、我慢しなくてはいけないのは自分だ。
僕のマリさんも、いつでも言いたい放題に振る舞っているわけではない。お客様に見える場所で、必要以上に個性を隠さずにおしゃべりし合うことで、店の個性を伝えたり、時に言葉を飲み込み、スタッフ感で愚痴を言い合って発散したりもする。
だけど、ここぞというところでは引き下がらない。そんな人が会社に、チームに1人でもいてくれたら、すごく応援したくなるし「いいぞもっとやれ」と言いたくなるだろう。
当たり前の常識に、一石を投じてくれる良本。これを読んでおくことで、いつか自分もここぞという時に、神様なクライアントに一発カウンターを食らわせてやることができるかもしれない。
もちろん、カウンターを食らわせることを目的にするのも良くない。ただ、自分という人間の尊厳を保つために、全てのビジネスマンが読んでおく価値がある本だと思う。
(ミクニシオリ)