【街の色、街の音】第6話:夫婦日和
よく晴れた日曜日の井の頭公園には、たくさんの人が訪れている。家族連れ、カップル、若い人たちのグループ、お年寄り。
「あ、ベンチあいてる。座ろうよ」
彼の提案に、うん、と答えて、近づいていった。
だいぶ寒いけど、こうしてベンチに並んでいることの安堵感が胸に広がる。家に帰ってきたような気持ちに、ちょっと似ている。さっき、井の頭線に乗ったときも、似たような安堵感をおぼえた。今は別の路線沿いに住んでいるけれど、乗り慣れた井の頭線の空気は、わたしを落ち着かせる。
「担当の人、優しくてよかったね」
「ね、よかったね」
彼の言葉に、担当者である女性の笑顔を思い出す。レストランウエディングも捨てがたいと思っていたけど、光の差しこむチャペルが決め手となって、結局は結婚式場で申し込んだのだ。挙式と披露宴は六月。あと四ヶ月ほどだ。まだ先のことにも思えるけど、きっとあっというまに過ぎてしまうのだろう。
披露宴での友人代表スピーチは、大学時代の友人である優実にお願いしている。優実は不動産店に勤めているので、日曜日に休むのは難しいかもしれないと思っていたが、出席もスピーチも、快く引き受けてくれた。数日後に二人で食事をする予定がある。最近好きな人ができたと言っていたので、詳しく訊いてみるつもりだ。
「京香の友だちは、結構みんな出られそう?」
「そうだね。まだ返事来てない人もいるけど、多分」
訊ねた中では、高校時代の後輩である凛子ちゃんが、もしかしたら欠席になるかもしれないと思っていたが、ぜひ行きたいと言ってくれた。このあいだ赤ちゃんが産まれたらしいから、近いうちに会いに行きたいと思っている。
「なんかまだ実感わかないよな」
「ほんとだよね」
目の前をたくさんの人たちが行き交っていく。みんな、寒そうではあるけど、幸せそうにも見える。
彼とは付き合って三年以上が経つ。一緒に暮らしはじめてからは半年ほどだ。
何度となく、井の頭公園に訪れた。わたしがこの近くのアパートに住んでいたからだけど、引っ越してからもしょっちゅうやってきた。何をするというわけでもなく、ただぼんやりと、春は桜を、秋は紅葉を眺めたりしながら、とりとめもなく話すのが好きだった。
まだ友だちのときに、付き合おうと告白されたのも、井の頭公園のベンチだった。帰り道で初めて、手をつないで公園内を歩いたのが、やけに気恥ずかしかったのも、既に遠い記憶だ。
どこで目にしたのか思い出せない情報を口にする。さっき見たのだったか、別の日に見たのだったか忘れてしまったが、いずれにしても内容は記憶していた。
「今年、百周年らしいね」
「ああ、ここが?」
「うん。五月に百周年って書いてあったよ」
百年間のあいだに、どれだけの物語が、この空間の中で生まれたのだろうと思う。幸せなものも、悲しいものも。
「おれらも百周年いけるかな」
「え?」
「夫婦百周年。せっかくだから」
「何歳まで生きるつもりなの」
わたしは笑った。わたしたちは今年二十九歳になる。妖怪じゃないんだから、とさらに言うと、彼も笑った。そして言った。
「夫婦になってくれてありがとう」
入籍は先月済ませた。区役所で婚姻届を受理された瞬間は、意外とあっけないんだな、と思っていた。彼も同じことを言っていた。だから、突然そんなふうに言われて、わたしは一瞬言葉に詰まってしまう。だけど思うことを素直に口にした。
「こちらこそありがとう」
言ってから気恥ずかしくなる。でも心地いいものだった。告白されたときの記憶が、鮮明なものになって胸によみがえる。
井の頭線に乗って、家に帰ろう。そしてまた何度でも、ここに訪れたい。夫婦五周年も十周年も、なんなら本当に百周年も、ここでとりとめのない話ができればいい。わたしは生まれたばかりの願い事を、そっと噛みしめる。
この物語で登場した京王井の頭線沿線マップ
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著者/加藤千恵
北海道旭川市出身の歌人・小説家。立教大学文学部日本文学科卒業。2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人として脚光を浴びる。短歌・小説・詩・エッセイなど幅広く活動中。
提供:京王電鉄株式会社