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【街の色、街の音】第2話:カフェ日和

「まいったな、打ち合わせ、二時間後に変更してくれって」

 明大前のホームの端で通話を終えたばかりの嶋本さんは、わたしにそう告げた。

 突然の自由時間だ。しかも嶋本さんと。

 まいったどころか、思わず笑顔でガッツポーズしたくなるのを必死にこらえながら、そうなんですね、と暗い声を作って言う。

「会社戻るのも微妙だしなあ」

 戻るなんてとんでもないですよ、と強く否定したくなるのもやっぱりこらえて、微妙ですよね、と同じ言葉を繰り返す。

 

「あ、電車来る。とりあえず乗ろうか」

 シルバーに水色のラインが入っている井の頭線の車両が、なめらかにホームに入ってきて、それぞれの停止線にぴったりと合う位置で止まる。急行電車だ。平日の午後早めの時間帯なので、さほど混んではいないが、座席は埋まっている。わたしたちは近くに並んで立つ。わたしの視界には、背の高い嶋本さんの、ネクタイの結び目が入る。紺地に白の細かいドット。

 顔ではなく、ネクタイの結び目を見ながら、動きだした車両の中でわたしは言う。なんでもないことのように自然に聞こえるように。

「吉祥寺でお茶でもします? 待ってるあいだ」

「ああ、そうしようか」

 緊張の提案が、あっさりと受け入れられて、拍子抜けしてしまいそうになる。奇跡という大げさな言葉を使ってしまいたい。

「でもお店とか知ってる?」

「吉祥寺だったら何軒か知ってますよ。チャイのおいしいところとか、テラスのあるところとか、あ、ハワイアンカフェなんかも」

 思いつくままにあげているうちに、視線を感じ、ふと顔をあげると、嶋本さんがこちらをじっと見ていた。あまりにまっすぐな視線なので、不安になるくらいだ。

「あの、どうかしました?」

「いや、詳しいんだなあと思って。家近いんだっけ?」

「実家がわりと近くて、時々来るんです。友だちとお茶したりとか」

「あ、そうなんだ。じゃあ井の頭線も乗ってたの?」

「高校時代はこれで通学してましたよ」

「へえ。なんだか楽しそうだな。うちの地元は電車とかなくて、バスか自転車だったから、ちょっとうらやましい」

「そうなんですか」

 嶋本さんの言葉に、毎日のように一緒に通っていた優実のことを思い出す。不動産会社に就職した優実とは、そういえばしばらく会えていない。久しぶりに会って話したいな、と思う。

 

「じゃあ、せっかくだからイチオシのカフェでお願いします」

「わ、どこがいいだろう……。ちょっと考えますね」

「仕事じゃないんだから、そこまで真剣にならなくていいよ」

 嶋本さんがほどけるように笑ってくれて、わたしも、ですよね、と小さく笑う。懐かしい電車に、好きな人と乗っていることが、単純に嬉しい。

「これは急行だから停まらないですけど、各停で井の頭公園駅で降りて、吉祥寺に抜けるっていうのも、また違った感じでいいんですよ。高校時代はよくやってました」

「へえ。井の頭公園って、あんまり行ったことないかもなあ」

「すごくいいですよ。季節で雰囲気が変わって。お花見の時期はだいぶ人が多くなりますね。桜も綺麗で」

 言葉をつなぎながら、今夜は麻里にメールしなければ、と考えていた。去年出産を機に退社した、同期の麻里は、嶋本さんに好意を抱くわたしをいつも応援してくれていた。嶋本さんとお茶なんて、絶対に報告しなくては。でも、まだお茶どまりなの、と笑われてしまうだろうか。

「じゃあ、まだ時間あるし、久我山で各停に乗り換えて、吉祥寺まで少し歩いてみようよ。そのコース。せっかくだから」

 嶋本さんの言葉に、信じられない、とつぶやきそうになるのを抑え、あっ、はい、と答えた。麻里へのメールが、ずいぶん長いものになりそうだ。奇跡という言葉をまた思う。

 

 車両の窓からは秋の光が射しこんでいる。電車はもうすぐ久我山駅に到着する。

この物語で登場した京王井の頭線沿線マップ

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著者/加藤千恵

北海道旭川市出身の歌人・小説家。立教大学文学部日本文学科卒業。2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人として脚光を浴びる。短歌・小説・詩・エッセイなど幅広く活動中。

提供:京王電鉄株式会社

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