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野田市はなぜしょうゆの町となったのか? 「もの知りしょうゆ館」で歴史をひもとく

和食ラボ編集部

日本の伝統的な調味料のひとつに「しょうゆ」があります。その秘密を探るために千葉県野田市にあるキッコーマン「もの知りしょうゆ館」を訪ねました。
野田市がなぜしょうゆの町となったのか、そこには現在のように交通網が発達していなかった時代ならではの理由がありました。

野田市がしょうゆの街になった経緯

御用蔵

現在の千葉県野田市でのしょうゆ醸造は、高梨兵左衛門家によって江戸時代初期である1600年代に開始されました。
やがて茂木七左衞門家など続々としょうゆ造りをするようになり、野田は関東一のしょうゆの産地へと成長。 その後、茂木・高梨一族および、流山の堀切家が合同して「野田醤油株式会社(現・キッコーマン株式会社)」を設立しました。 そこから変わらず現在まで、野田の地でしょうゆが造り続けられています。それは気候だけではなく立地条件も兼ね備えていたため。 では、しょうゆ造りに適した立地とは何でしょうか?

原料&製品の運搬に便利な立地だった

しょうゆの原料は「大豆・小麦・食塩」の3種類です。 野田市周辺には利根川・江戸川という大きな川があり、川はこの3つの原料を運ぶのに重要な役割を担っていました。
「大豆」は現在の茨城県から、「小麦」は現在の群馬県や埼玉県から、「塩」は江戸川の河口に近い千葉県の行徳から集められていたそうです。
完成したしょうゆは江戸川を使うと、江戸まで半日ほどで運ぶことができたのです。
徳川家にも献上されていたしょうゆ、野田市で作るのが立地的に非常に適していたのです。

キッコーマン「もの知りしょうゆ館」レポ

●江戸時代の面影を残す蔵

仕込み室

キッコーマン野田工場の敷地内にある御用醤油醸造所(通称「御用蔵」)は、伝統的なしょうゆの製造方法を紹介するミュージアムにもなっています。
この蔵では現在でも宮内庁に納めるしょうゆを醸造していて、仕込室では仕込んだばかりのもろみと、二段仕込みの二種類のもろみを見ることができました。シートをかぶせた状態の日もあるので、この様子を見ることができるのはラッキーなのだとか。
江戸時代の面影が残っている蔵をめぐって、当時の様子を垣間見ることができます。

●70年以上前から絶えず使われている樽

展示されているしょうゆ樽

仕込み室の下に降りると古くから使用しているという大きな樽が見えます。
樽は常に食塩水やもろみが入っていないと、すぐにダメになってしまうものだそう。 ほのかにしょうゆの香りも漂い、70年以上も前からこの樽で絶えずしょうゆが造られているという歴史を間近で感じることができました。

●嗅覚でも歴史を感じられる、しょうゆ作り体験

しょうゆ作りも体験できる

しょうゆ作り体験では、作って1カ月、3カ月、6カ月のもろみを実際に見て香りの違いを感じることができます。 少しずつ変化し、しょうゆの香りが強くなっているのがわかり、視覚だけではなく嗅覚でもしょうゆの歴史を知ることができます。

まとめ

食卓にいつもあるしょうゆですが、醸造が始まった頃からの長い歴史や作り方、発酵の様子など知らなかったことが数多くあり、驚きもいっぱいでした。 昔と変わらない製法で作られているしょうゆを、じっくりと味わいたくなりますね。また、もっともっと詳しくしょうゆについて知りたい方は、週末などを利用して、野田市のキッコーマン「もの知りしょうゆ館」へ足を運んでみてはいかがでしょうか。

(海野有美/和食ラボ編集部)

※この記事は2015年11月06日に公開されたものです

和食ラボ編集部

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