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日本各地に遊郭街があった! 命じられてしぶしぶ……オランダ人の夜の相手が不人気の理由とは?

堀江 宏樹

和室江戸時代には幕府公認の遊郭は、江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町と、全国に3つしかないとされていました。しかし現実的には半公認の遊郭街は全国いたるところにあったのです。天保十一年(1840)ごろからは、蝦夷(北海道)から熊本(熊本県)にいたる201~207箇所ほどの「遊所」に番付をほどこし、データを掲載した印刷物がしばしば市販され、人気を呼びました。

各地の遊郭は、それぞれの地方の事情を反映しており、他地域から見れば「えっ?」みたいなことが常識なのですね。例えば今年、北陸新幹線が開通した金沢にあった「金沢東郭」。こちらは、加賀藩が設置をしぶりにしぶりまくり、文政三年(1820)になってようやく営業を許可したというエピソードがあります。その理由としては遊郭で不品行なことが起きれば、幕府から藩の取り潰しの命令を下されるのでは……と恐れていたからではないでしょうか。

現存する建物の雰囲気も、色街とは思えないほどスッキリとした清潔感があり、それだけでも特徴的ですが、遊郭に「武家の入場は禁止」とされ、他地域にはない独自ルールが貫かれていました。

さらに営業開始して約10年後の天保二年(1831)から、慶応三年(1867)年にかけては閉鎖されているのです。わざわざ遊郭街を作ったのに、(非公認営業の)私娼がいっこうに減らないことへに藩上層部が怒ったからでした。ところが幕府の監視に怯え、マジメに振る舞わねば……と思えば思うほど、加賀藩には逆に非公認の私娼があふれかえることになり、風紀は乱れがちだったそうです。

長崎の丸山遊郭も、その歴史に興味深いものがあります。丸山には外国人用の遊女もおり、彼女たちはオランダ人が暮らした出島や、唐人屋敷の中国人の相手をしました。もともと長崎の遊郭の歴史は文禄二年(1593)頃、南蛮人を相手にした遊女商売をはじめようとおもった「恵比寿屋」という遊女屋が、長崎に進出したことがきっかけでしたからね。
最盛時の元禄五年(1692)には、1443人もの遊女がいたそうです。

丸山遊女のワークスタイルは三種類で、日本行き(日本人用)、唐人行き(中国人用)、阿蘭陀行き(オランダ人用)とある中、阿蘭陀行きはもっとも遊女たちが嫌う働き先でした。
このため売れ残りで、なおかつ最下級の遊女の仕事が阿蘭陀行きでして、まったく自発的なものではなく、幕府の御役人に命じられて、しぶしぶ……いう感じでした。
ところが、阿蘭陀行きの揚げ代は銀三十匁で、なかなかの額でした。江戸・吉原でも中の上程度のランクとされる「散茶」の遊女と同相場です。それでもイヤイヤだったようですよ。中国人の相手をしても、五匁しかもらえなかったのですが、まだそのほうがマシとされていたのは興味深いことです。

オランダ人の相手を嫌がった理由として、表向きには金髪碧眼の外見や独特の体臭が、遊女たちから「鬼みたい」と嫌がられたから……とされますが、もっと直接的な理由がありました。アジア人と白色人種とでは体格差がありますよね。詳しくはいえませんが、サイズの問題もあります。遊女にとって大事な商売道具が破損する危険性があるとされ、そもそも言葉もわからない鬼に抱かれる気持ちで緊張しているわけですから……まぁ、よろしくはなかったでしょうね。これは終戦後にアメリカ軍兵士の相手をさせられ、負傷してしまったという遊女の証言からの推測ですが。

丸山遊郭の逸話といえば、オランダ人医師・シーボルトを父に、「引田屋」の遊女・其扇を母にして生まれた女の子・楠本イネが西洋近代医学を修得し、最初の女医として活躍しています。


(堀江宏樹)

※写真と本文は関係ありません

※この記事は2015年07月20日に公開されたものです

堀江 宏樹

プロフィール歴史エッセイスト。古今東西の恋愛史や、貴族文化などに関心が高い。

公式ブログ「橙通信」
http://hirokky.exblog.jp/


角川文庫版『乙女の日本史 文学編』が7月25日、幻冬舎新書として『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』が9月30日にそれぞれ発売。

 

その他近刊に『乙女の松下村塾読本 吉田松陰の妹・文と塾生たちの物語』(主婦と生活社)、『女子のためのお江戸案内
恋とおしゃれと生き方と』(廣済堂出版)など。文庫版『乙女の日本史』ともども増刷中。

 

監修として参加の、音楽家バトルファンタジー漫画『第九のマギア』(メディアファクトリー)の第一巻も好評発売中!


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