お使いのOS・ブラウザでは、本サイトを適切に閲覧できない可能性があります。最新のブラウザをご利用ください。

稼げなくなった女性を安売り! 客を芸者に奪われた遊郭の最後の切り札は「お徳用遊女」

堀江 宏樹

和室吉原でのお座敷の花であり、主役はいうまでもなく遊女です。しかし、遊女がいない町中の宴会場では芸者自身が主役でした。そして江戸時代中期以降、芸者があつまる花街として知られている深川(現在の江東区)などが、吉原を揺るがすほどの非公認の売春街、つまり岡場所にもなっていったのです。吉原の遊女は、どんなに吉原の中では下級遊女ということでも、相対的に格式も値段もずいぶん高めでした。しかし、芸者は遊女のお座敷でのいわば前座的存在。現代の貨幣価値になおせば、一人あたり数万円ほど用意できれば大丈夫でしたから、そこまでお高くつく存在、というわけではなかったのです。

そういうことで、たとえば一晩まるごと芸者に仕事をさせる、なんて契約方法もありました。密売春の危ない香りがプンプンしますが、朝まで宴会をしていたといえば、「何の問題にもできなかった」のですね。
こうした違法営業が公然とおこなわれている深川などの岡場所に、吉原側としては密偵を放つことが多々ありました。そして奉行所に「どこそこの店のあの女が……」とたれ込むのですが、それ位しか具体的な対策法はなかったのです。
奉行所も岡場所の摘発を何度も行い、厳しい対応をとってはいました。が、お客としては吉原行きがバレると家族に言い訳しづらいのに対し、普通の花街で飲んだというと誤魔化しが効きやすかったり、場所も立地的に便利だったり、なにより値段の安さと、お澄ましな遊女にはない芸者の明るさに惹かれたお客が芸者と寝てしまう……なんてコトは多々起きていたのです。

たとえば幕末の江戸は不景気でした。
吉原も江戸時代前期のような華やかさは望むべくもなく、しかしそれでも残った伝統的な格式感や値段の高さがわざわいし、お客の数は減る一方だったんですね。
一方、この頃、深川の芸者やその関係者にはひそかに大金を儲けられておりました。深川に三軒ほどあった代表的な茶屋のうち大黒屋でも、座敷の畳に隠された出入り口から梯子を伝って下り、ようやく辿り着く……みたいな、通称・隠れ座敷を増設させるほどの繁盛振り。茶屋というのは、現代でいう料亭や宴会場のことですね。
当時の風紀上の制限で、宴会場に宿泊施設があってはいけないということになっていたのですが、芸者が酔ったフリをして、お客と泊まってしまうことが日常茶飯になっていたわけです。寝たフリをしてお客を誘う芸者を「突っ伏し芸者」といいましたが、現代でもありがちですが、意中の男性のいるお酒の席特有の、女子の「ねむくなっちゃった」的な演技、当時から有効だったんでしょうかねぇ……。

それでも「芸は売っても身体は売らない」というのが、遊女から派生した芸者の生存理由ですから、ルールを破った芸者は、「転び芸者」と陰口を叩かれることは覚悟の上でした。しかし、やはり生きるためには稼がねばなりませんものね。
こうして芸者に客を奪われ、長引く不況に耐えかねた、万字屋など複数の吉原の遊郭が「遊女大売り出し」とのチラシを江戸市中にばらまきはじめたのが、1851年の春の話(嘉永四年三月)。そのチラシにはなんと「御徳用遊女」なる文句まで書かれておりました。お徳用ってスーパーの特売じゃないんだから……。

吉原の営業活動は幕府から許されてはいても、積極的な宣伝は風紀上の理由で厳禁されていました。このチラシのおかげで、万字屋は10日営業停止処分を受けましたが、そこまでしないといけないほど、追い詰められていたのでしょう。吉原の経営者だけでなく、遊女たちからすれば、ある種の芸者は商売仲間どころか、客を奪う、かなり憎たらしい存在になっていったはずなのです。

???????????
著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
???????????

※写真と本文は関係ありません

※この記事は2015年05月09日に公開されたものです

堀江 宏樹

プロフィール歴史エッセイスト。古今東西の恋愛史や、貴族文化などに関心が高い。

公式ブログ「橙通信」
http://hirokky.exblog.jp/


角川文庫版『乙女の日本史 文学編』が7月25日、幻冬舎新書として『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』が9月30日にそれぞれ発売。

 

その他近刊に『乙女の松下村塾読本 吉田松陰の妹・文と塾生たちの物語』(主婦と生活社)、『女子のためのお江戸案内
恋とおしゃれと生き方と』(廣済堂出版)など。文庫版『乙女の日本史』ともども増刷中。

 

監修として参加の、音楽家バトルファンタジー漫画『第九のマギア』(メディアファクトリー)の第一巻も好評発売中!


この著者の記事一覧 

SHARE