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水戸黄門は諸国漫遊していないって本当?「本当:自由奔放に生き、日本で初めてラーメンや餃子、チーズなどを食べた人物」

「この紋所(もんどころ)が目に入らぬか」と、印籠(いんろう)を突きつけられて、うろたえ土下座する悪党たち。定番シーンが有名な「水戸黄門」は、行く先々で悪い奴らを懲らしめる勧善懲悪のストーリーが魅力のひとつだ。

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だが、ドラマの光圀(みつくに)公こと徳川光圀は、作られた人物に過ぎない。実際の光圀公は諸国漫遊していないどころか、若いころは遊郭(ゆうかく)遊びにハマっていた、有名な不良少年だったのだ。

光圀公、自由奔放に生き、進むべき道を知る

そもそも光圀公は望まれない子だった。側室でも侍女でもない娘に父が手を出し、生を受けたのだが、無情にも父は産むなと命じた。娘をかわいそうに思った家臣夫妻が助け、無事出産。これが光圀公の兄である。だが、こりない光圀公の父は、再度同じ娘を妊娠させてしまい、やはり産むなと命じ、また同じ家臣夫妻が助け、なんとか光圀公はこの世に生を受けることとなった。

なんとも進歩のない父である。

そして、病気を患っていた兄の代わりに、5歳でいきなり父に呼び出され、光圀公は水戸家の跡継ぎとなる。

若き日の光圀公は、江戸の屋敷で武士としての教育を受けていた。その内容は、斬首になった囚人の首を取りに行くなど、そんなことで武士のココロが養われるのかどうか疑問が残るものばかり。千尋(せんじん)の谷にわが子を突き落す獅子もびっくりの、嫌がらせのような内容だった。

しかし周囲の期待とは裏腹に、徐々に光圀公は「江戸」の悪さに染まっていく。年頃になるとビロードの襟を付けた派手な服装で遊郭(ゆうかく)へ通ったり、悪い仲間たちとつるむなど、家康の孫?マジで?状態だったという。

しかも始末の悪いことに、彼は鼻筋の通ったイケメンで、江戸城へ登城する日などは、その姿をひとめ見ようと群衆が殺到したという話も残っている。いい気になった光圀公は、どんなに反省をうながされても、全く懲りずに遊び呆けていた。

そんな彼を変えたのは、司馬遷(しばせん)の書き記した「史記」収められている「伯夷伝(はくいでん)」という伝記だった。18歳でこの物語に出会い、ひどく感銘を受け、今までの堕落した生活から完全に足を洗ったのである。

そしてのちに、光圀公が日本の歴史書「大日本史」を編纂(へんさん)するきっかけとなったのだ。

学者が代わりに諸国漫遊?

隠居後の光圀公は領内を巡検する程度で、領国をほとんど出ていない。

水戸と江戸を往復したほかは、日光東照宮への参詣、鎌倉と熱海に旅行したぐらいで、諸国漫遊とは程遠い、狭い範囲でしか活動していないのだ。それが「諸国漫遊」にまで発展したのは、大日本史編纂の際に学者たちを全国各地に派遣し、調査させたことのイメージからだろう。

ちなみにこの大日本史、作業が遅々として進まず、指揮を執る役人が、学者たちを全く休ませないブラック企業状態だったという。しかしそれを知った光圀公は、きちんと休養が取れていないと良いものは作れないだろうと、作業体制を改めるよう指示した手紙を書き、学者たちの生活を守ったという話がある。

それが理由か定かではないが、大日本史の完成は明治までずれ込み、スタートからじつに250年もの時間を費やしてしまったのだ。

まとめ

・若き日の水戸黄門は、有名な不良少年

・諸国漫遊どころか、ほとんど領国を出ていない

・大日本史が完成するまで、250年もかかってしまった

光圀公はグルメとしても知られ、日本で初めてラーメンや餃子、チーズなどを食べた人物とされている。同時代に綱吉が出した「生類(しょうるい)憐れみの令」に反抗して犬の毛皮を送ったことは有名だが、それだけではなく、禁止されていた牛/豚/ヒツジ肉などを勝手に食べるなど、ドラマからは想像できないアナーキストだった。

ちなみにこのとき食べたとされるラーメンは、水戸ラーメンとして現在に受け継がれているので、興味があれば食べてみてはいかがだろうか。

(沼田 有希/ガリレオワークス)

※この記事は2014年06月01日に公開されたものです

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