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専門家 生活

性欲を満たすために行く場所ではなかった!? 意外と知られていない吉原の実態

堀江 宏樹

着物をきた女性

みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。江戸時代を扱った作品にしょっちゅう出てくるのが遊郭、そして吉原ですよね。でも吉原は一般男性にとって、日常的な存在ではありえませんでした。「ただの」風俗街と考えたら大間違いなのです。

吉原とは非日常性がウリの「愛と性のテーマパーク」だったんですね。

吉原という街が江戸幕府の公認を得て、江戸に生まれたのは1617年のこと。徳川家康が幕府を江戸に置くまで、関東一円は小さな村が点々とあるだけの田舎でした。江戸を政治の中心地にふさわしい街にするため、街では土木工事がつねに行われつづけたのです。全国から職人男性に大量に流入したため、男女比率が7:3に近かった時代もあるのが江戸の街でした。しかし、相手の女性が見つからない「非モテ」男性のための場所として、吉原が出来たのではないのです。

実は、最初期の吉原はおそろしく格式が高かったのですね。庶民の男性など、お店に入れすらしません。吉原のシステムでは、お客は目当ての遊女と男女の仲になるためには最低3度は通わねばなりませんでした。しかも一度、指名したら別の遊女に鞍替えは御法度。現在のホストクラブと同じく、永久指名制なわけですよ。もし遊郭に「浮気」がばれたら、手ひどいお仕置きがまっていました。もちろん、お客に、です(笑)。

面会の一度目、2度目は本当に遊女の顔を見るだけです。しかも、遊女が上座。ほとんどしゃべりもしません。それでも正規のお花代を遊郭に支払わねばならなかったのですね。さらに、遊郭が用意した芸者や盛り上げ役の太鼓持ちとよばれる男性芸人などにもご祝儀という名のギャラを払わねばなりませんでした。

つまり、吉原とは性欲を満たすために行く場所ではなかったのです。

吉原とは、「恋」とはなにかを経験するために行く場所だったのですね。

一般女性には到底着られないような極彩色の衣裳と、何本もカンザシを指したどハデな髪型(ちなみにカンザシの数は関東と関西では異なり、江戸・吉原の太夫は12本、京都の色街・島原の太夫は8本)をした、天女のような美女と、理想化された恋愛の幻想を楽しむための場所だったのです。

吉原の遊女の話とは厳密には違うのですが「東の吉原、西の島原」とうたわれた、京都の島原の人気遊女・野秋(のあき)のすばらしさとその理由を、井原西鶴は次のように書いています。

野秋は顔だけでなく肌が美しい。また行為の最中、情熱的である。切ない声をあげ、焦らしのテクニックで客を夢中にさせる。しかし全てが終わると、しつこくせず、「さようなら」と美しい声で別れの情緒を完璧に演出する……とかなんとか。遊女ってホントに理想の女を演じる女優だったのですね。

ホントは不感症の遊女のほうが多かったともいわれていますね。当時は女性がセックスでエクスタシーに達すると即・妊娠すると考えられ、それは遊女にとって最大の恥だと考えられていたことも、不感症とは無縁ではないでしょう。

江戸初期は関西の文化水準は関東の比ではないくらいに高く、美女は関西に在り、とまでいわれていたのですが、吉原の遊女には、東北地方の貧しい農民の娘が売られてくることが多かったせいで、丸顔の女性が多かったとか。当時の丸顔というのは、硬い玄米や食物を幼児の頃から頬張っていたため、顎の筋肉が発達したイメージです。また、「~でありんす」などの、吉原の遊女言葉は、彼女たちの御国訛りを消すための工夫でした。

ちなみに江戸初期、吉原の遊女と「床入り(男女の仲になること)」するためにかかる経費は、現代の価値で安くて数百万円か、ヘタすればその倍ほどかかりました。要するに金も暇もあれば、女のワガママが好物だと言い張れるほど、オトナの男の器がタメされる場所が吉原だったのでございます!

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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
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※写真と本文は関係ありません

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